小野十三郎《不当に「物」が否定されたとき》[2023年02月01日(Wed)]
不当に「物」が否定されたとき 小野十三郎
不当に
「物」が否定されたとき
私は「精神」に対して怒りを感じた。
物質は或るとき
そういう精神どもに取囲まれた。
物は駆り出されて
あちこち逃げまどい
或は天界にすっ飛んだ。
物は容(い)れられず
永久に孤立していた。
物は内に深い寂寥(せきりょう)をたたえ
異国の荒れた鉱山や
旧世代の都市の工場地帯から
はるかに
故国の方を見ていた。
私はいま物の位置を信じることが出来る。
雑白な
脅迫がましい精神どもが立ち去ったあとから
わたしは物質をこゝに呼びかえしたい。
その酷烈な形象で
全地平を埋めつくしたい。
第6詩集『大海辺』(1947年刊)に収録。
ここでは日本詩人全集26『吉田一穂 高橋新吉 小野十三郎』(新潮社、1968年)に拠った。
(旧仮名遣いの原詩を現代仮名遣いに改めてある)
◆物質を精神より上位に置く考え方に、この詩ははっきり異議申し立てをしている。
戦後まもなくという時代を考慮すれば、「精神主義」が幅を利かせて坂道を転げ落ちて行った世情に対して、短歌的抒情が何ら抵抗を示さなかったことへの烈しい批判があるのだろう。
◆再び好き好んで破滅に向かうような愚かな選択をするはずがない、と牧歌的に信じていられないのは、「精神」や「文化」、「日本人のよき伝統」を鼓吹する勢力が、実態においては極めて物欲旺盛だという倒錯が蔓延しているからだ。
今、またもや「精神」は、集団をコントロールする手段に成り下がっているわけだろう。
「精神」の「物」化である。
人間が「物」扱いされ、道具や手段として酷使されるばかりであるのも当然な話だ。
(あちこちで不穏な事件が頻発しているのはそのせいでは、とさえ思える。)
◆「物」であることと「精神」であることとが不可分な主体を立ち上がらせること。
原動力は「怒り」なのだが、その性質を承知して効果的かつ持続的に燃やし続けること。