
〈権利〉は目覚めている:小熊秀雄「馬車の出発の歌」[2023年01月27日(Fri)]
馬車の出発の歌 小熊秀雄
仮に暗黒が
永遠に地球をとらへてゐようとも
権利はいつも
目覚めているだらう、
薔薇は暗の中で
まつくろにみえるだけだ。
もし陽がいつぺんに射したら
薔薇色であつたことを証明するだらう
嘆きと苦しみは我々のもので
あの人々のものではない
まして喜びや感動がどうして
あの人々のものといへるだらう、
私は暗黒を知つてゐるから
その向ふに明るみの
あることも信じてゐる
君よ、拳を打ちつけて
火を求めるやうな努力にさへも
大きな意義をかんじてくれ
幾千の声は
くらがりの中で叫んでゐる
空気はふるへ
窓の在りかを知る、
そこから糸口のやうに
光りと勝利をひきだすことができる
徒らに薔薇の傍にあつて
沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ
君の感情は立派なムコだ
花嫁を迎えるために
馬車を支度しろ
いますぐ出発しろ
らつぱを突撃的に
鞭を苦しさうに
わだちの歌を高く鳴らせ。
岩田宏・編『小熊秀雄詩集』(岩波文庫、1982年)より
◆ずいぶん前に、冒頭の4行だけ引いたことがあるが、昨日の新聞で「権利」について、別の角度から照らし出す文章に出会って、改めてこの詩を思い出すことになった。
新聞の文章というのは、1月27日の朝日新聞「論壇時評」の林香里氏の「コロナ下3年の人権 よりよく生きる 求めていい」である。
林は藤田早苗『武器としての国際人権 日本の貧困・報道・差別』(集英社新書、2022年12月刊)の一節を次のように紹介している――
国際人権法が専門の藤田早苗はG(上掲書)において、人権とは「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」という国連の定義を引きながら、「人権」とは政府への要求概念であると主張する。
《政府はどの人もその能力を発揮できるよう助ける義務がある》という視点が重要だ。(林の文章は、結びの「と主張する」という措辞が、せっかくの「国連の定義」を注ぎ水で薄めるみたいであるのが残念だが。)
「自己責任」論に飼いならされ、闇の中に逼塞してきたかのようなこの20年を抜け出すには、「人権」を持ち出すことに臆してしまいがちな私たち自身の思い切った発想の転換が必要だと感じて来た。「人権」とか「権利」を口にしようものなら、たちまち「お前の義務の方はどうなんだ?」と突っ込まれて下を向いてしまう人が多かったのではないか。
上の定義は逆だ。義務は政府の方に課されている。
ただし、黙っていても政府が義務を履行してくれるわけではない。
政府への要求を当事者として行動に移す必要がある。それが権利の行使、ということだ。
小熊秀雄の詩、
《沈黙をしてゐるな
行為こそ希望の代名詞だ》
は、そのことを簡潔かつ明確に述べている。