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嵯峨信之「小さな岸」[2022年08月02日(Tue)]

DSCN5803.jpg

ニセアカシアの花。足もとには黄色味を帯びた花びらが散り敷いていた。


*******


小さな岸   嵯峨信之


愛するとは
遠いどこかで言葉がめざめることではないか
物の形にその名がやさしく帰つてくることではないか

魂しいが小さな岸に上陸する
ぼくも旅に出よう
もし無限の忘却ということがあれば



『嵯峨信之詩集』
(青土社、1985年)より


◆「愛するとは/遠いどこかで言葉がめざめること」という、ふと訪れた気づき。
いま、ここで愛することが、同時にどこか遠くのものに言葉によって形を与えているのでは?

私は確かに、いま・ここにいるのだが、「愛する」という、対象への働きかけが、エネルギーを失うことなく波として伝わって遠い何ものかを目覚めさせ、その揺り返しが再び私に届けられる。
形を与えられた「魂しい」が「ぼく」に言葉を返してくれたとも言える。

そのように「魂しい」が「言葉」とともに往還するのであるなら、旅に出ることを恐れる理由などない。記憶の有り無しを気にする必要もない――

――と詩を読み味わって、「記憶」は多くの場合、名詞としてしまい込まれているのでは?と心づいた。それは整理するうえでは省スペースでありアクセスも便利なようだが、「魂しい」が離れているために心もとない感じだ。

ところが、「愛する」とは動詞、働きかける行為だ。不確実性に満ちていて、応答が得られるかも定かではない。そう思ったとき、ようやく最終行「無限の忘却」の意味がつかめて来た。

◆「魂しい」や「言葉」が往還するものであるならば、自分が忘れることも、忘れられることも問題ではなくなる。

「旅に出る」とは意志を必要とする行為であるように見える。だが、こちらの岸を離れて出て行くところは、海だ。

とすれば、「旅」は、遠い岸に寄せ、またこちら岸に寄せ返す海波に身を浮かべることに過ぎない。「無限の忘却」とは、そのように身を任せる「無量の自由」なのである。

無数の「小さな岸」たちは、そのまま大きなひとつの海によって、じかに接している。
無礙につながっている、と言っても良い。
縛りつけたり服従を強いたりするのでは全く無い。その意味で「自由」なのだ。



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