
木村孝夫「ぶらんこ」[2022年06月08日(Wed)]
ぶらんこ 木村孝夫
ぶらんこを漕いでいると
ときどき足が
少し地球の外にでる時がある
子どもたちも
お父さんも、お母さんも気づかない
海の青さも無言だ
地球の外は
棺に納められた
人の体のように冷たいと聞いている
地球の外に足がでる怖さを
ぶらんこを漕ぐ子どもはわからない
だから、漕ぎ方が大胆だ
遊びにも小さなルールがある
ブランコの円周率の中だけで漕ぐ
と いう約束
ぶらんこを漕ぐたびに
コンパスの鋭い視線が
地球の外にでる足裏を突き刺す
夕暮れ時になると
コンパスに突き刺された足裏が
真っ赤に腫れあがっている
楽しさの後には
いつも凍りついたように痛くなる
だから、海に向かって
そんな漕ぎ方をしてはならない
『十年鍋』(モノクローム・プロジェクト、2022年)より
◆ブランコを漕いでいて、もし心棒がはずれて、とんでもない遠くへ飛んで行ってしまったら……と想像し、汗ばんだ手や顔と裏腹に足先から肝のほうに上がってくるヒヤッとするものを感じることは一度や二度、(あるいはひょっとしてしばしば)あるのではないか?
地球の引力に逆らおうと試みながら、でもその力から自由になることはない、と思ってしまうのは、もう子どもでなく、つまらぬ大人になってしまったことを物語る。
◆その「ヒヤッとする」感覚を「足が/少し地球の外にでる」と表現する。
詩集の題名が『十年鍋』としてあるのは2011年の大震災と大津波をうたった詩がたくさんあるからだが、この詩でも第二連に「海」があり、「棺」の語を含む第3連にも、海の冷たさががにじませてある。
◆そう言えば「漕ぐ」という動詞も「さんずい」だ。自転車も「漕ぐ」。
「舟を漕ぐ」ことと同様に、自分の手や足を動かしてはるかな冒険の旅に出る。
それを引き止める力に抗うのが「生き、そして死ぬ」ことかも知れない。
とすれば、抗うことをしなくなった、ものの分かったような大人とは、生きているフリをしているだけなのかも知れない。
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★木村孝夫には、間歇的に出会うようで、過去2回取りあげていた。
「椅子」(2020年10月2日)
→https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1726
「非戦」(2019年12月16日)
→https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1436