
服部誕「はじまりが…」/「はじまりは…」[2022年05月16日(Mon)]

ナワシロイチゴの花
咲いた花、これから咲きそうなもの……
実を付けるのは、田植えも済んだ六月ころか。
◆◇◆◇◆◇◆
服部誕『息の重さあるいはコトバ五態』より
(はじまりが…)
はじまりがすでにはじまりはじめている
おわりはまだおわりつづけている
◆◇◆
(はじまりは…)
はじまりはとっくにおわっていた
おわりがいよいよはじまりはじめた
◆服部誕(はっとりはじめ)という人の詩集『息の重さあるいはコトバ五態』(書肆山田、2021年)から、連続する2編の詩。
◆このところ、「終わりの始まり」という言い方を良く聞くように思う。
もとの動詞の「終わる」「始まる」は、ともに自動詞だ。
戦争が”終わる”、侵攻が”始まる”などという。これらの語を用いる人自身の主体的な関与はないまま、あるいは関与できない事態が「始まったり/終わったり」する場合に使う。
自分が関わらないために他人事としか思えない場合もあれば、どうにかしてやりたいが、思うに任せないゆえの焦れったなさや無力感に苛まれたりする場合もある。
伴う感情は、自分のせいではないと思えることから来る「安堵感」から、何も出来ないと思い知る「絶望感」まで、幅があるけれど、自分の関与がない分、距離を置いて、観察したり見届けたりしたことについて表現する。
すなわち事態の「始まり」や「終わり」について「認識・判断」するよう要請するコトバだ。
上の短章二篇も、「認識」していることの表現になっている。
◆一方、他動詞である「始める」「終える」は、主語・述語をセットで想定することが必要な言葉で、《誰が》《何を》「始める」あるいは「終える」のかが問題となる。
《プーチン・ロシア》が《侵略》を「始める」/《ウクライナ》が《防衛》・《反攻》を「始める」
といった具合にである。
◆永遠に続くものは無い以上、「始まり」には「終わり」が必ずある。――そう思えることが希望の源泉となる。
一方、その「終わり」は、「始めた者」が「終える」ことによってしか、達成されない。
「プーチンの戦争」また然り。そもそも、「終える」ことの出来ない者が「始める」ことなど、許されるはずがなかったのだけれど。