高橋睦郎「神話」[2022年01月09日(Sun)]
◆いつ頃から成人の日が固定した日付けではなくなったのか知らないが、新型コロナ感染拡大のあおりを受けて中止やオンライン開催にした自治体が少なくないようだ。
時間の流れを堰き止めるのが祝日や記念日の役割であろうのに、あっちにフラフラこっちにフラフラと乾ききった地表を風に吹かれて転がる草みたいな「成人の日」では、人生の節目に立ったという感慨を期待してもムリというものだろう。
「ハッピーマンデー」とは人間のご都合主義の最たるものかも知れない。
この世界には、人間の都合に合わせてくれるものの方がはるかに少ないに決まっているのに。
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神話 高橋睦郎
それが冬と春との季節のさかいなら
そこはこの世と別の世との世界のあいだ
野を横切るのがありふれた流れでも
その名はきまって世の果ての川
(世の果てはいたるところにあった)
だから 寒い水にうつって群れ咲く
青ざめたその花は 世の果ての花
行きあわせる旅人は目を背けて過ぎ
凍て土に膝ついて摘む指もなかった
いまはこの世と別の世とのさかいも
冬と春とのあいだも消えて久しいから
(流れという流れは地表から失われた)
その花はどこの花屋のウインドウにも
異様に明るく騒がしくあふれかえって
ひるがえって この世にも別の世にも
行きどころをなくした私たちが
冬も春もない 夜も昼もない
のっぺらぼうの時間の少し上を
青ざめて 群れさまよっている
とこしえに
高橋睦郎詩集『旅の絵』(書肆山田、1992年)より
◆凍てついた土も、寒さがゆるめば僅かながらでも湿りを帯び、土の色も変わる。
それが地上に花を誕生させる。
土が含む水のことを花が忘れたとき、水の流れも時の流れも消滅する。
あの世のようなこの世を彷徨っているのが我々の姿ということか。
「摘む指もなかった」という表現、「花を摘もうとする者はいなかった」というほどの意味だろうけれど、「摘もうとしても、肝心の指がなかった」とも読める。酷くも哀れな我々人間の姿を諷したのかも知れない。