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新川和江「海をうしろへ……」[2021年09月26日(Sun)]

◆前回の新川和江「いちまいの海」の続編というべき一篇を。


海をうしろへ……   新川和江


海をうしろへ置いてきた
わずかな風にたあいなく満腹する
貧相な帆は 沖へ埋ずめてきた
小さな笊(ざる)を抱えた人々にまじって
朝ごとにあさましい浅蜊はもう漁らない
海浜ホテルに空室があっても
もう予約はしない
浜木綿のほそい花びらで
待ち人を占ったりも もうしない
あとは 胸突八丁
日々険しさを増す山を攀じるばかりだ
山巓で
年代ものの貝殻を拾うのだ
億年前の波音を聴くのだ
潮騒にまじって
わたしを呼ぶ者の声に答えるのだ
身じまいをして すずやかに「はい」と


 新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)、「半秒おくれて言語はやってくる」より


◆前回の「いちまいの海」の最終行、「あの海を どうする」を受けるように、この詩は「海をうしろへ置いてきた」と始まる。

エッセイ「半秒おくれて言語はやってくる」は、自作の詩を読み返し、それに促されるようにして新たに生成してくるイメージを言葉にしていく、そのプロセスが綴られている。
イメージや言葉が生まれる成り行きを述べながら一篇の詩作品を彫琢してゆく文章になっているのである。

第一行がこの形に収まるまでの説明に十数行費やしているが、この一行が成ってしまえば行く先が決まったも同じ。

先行作の「いちまいの海」ではpathosを形象化したものとして「海」を用いたが、そこから離れ、動的な〈生〉そのものというべき「海」との訣別が、やがて自分にもやってくる、それを先取りしてうたってみよう、と方針を思い定めた。
いわば、〈生〉から〈死〉の方へ、海辺のさすらいから山巓へと目差すものを転換させていく。

海にまつわるイメージを次々浮かべては後ろへ置いてゆく。
「朝ごとに…」の行では「asa」音を繰り返して遊んでもいる。
青春期や壮年期の望みや野心と訣別した分、軽やかになってゆくようだ。

むろん、登って行く山は険しさを増してゆく。だが、それは悠遠の往古に遡行することでもある。
山巓に登りつめればそこが海であった頃の貝殻を見つけるだろう。そうしてかつてわたしを生んだ処に還れとわたしを呼ぶ者の声を聞くだろう。



新川和江「いちまいの海」[2021年09月26日(Sun)]

◆昨日の詩「相模湾」に出会う前に、下記の詩が目に留まったのだった。


いちまいの海    新川和江

うつくしい海をいちまい
買った記憶がある
青空天井の市場で
絨毯商人のようにひろげては巻き
ひろげては巻きして 海を売っていた男があったのだ
午睡の夢にみた風景のようで
市場のことは はっきりとは思い出せないが

その海に
溺れもせずにわたしが釣り合ってゆけたのは
進水したての船舶のように
けざやかに引かれた吃水線をわたしが持っていたからだ
しかしそれも一時期のこと
引っ越しの際にまたぐるぐる巻きにして
新居の裏手の物置へ
がらくたと一緒にしまい込み忘れたままでいたのだが

一羽の鷗が物置の戸の隙間から
今朝不意に羽搏たき翔び立ち わたしをひどく狼狽させた
今頃になってよみがえって どうする
剝げ落ちた吃水線を弾き直す時間もわたしに与えず
裏庭を水びたしにしはじめている
あの海をどうする


新川和江『詩が生まれるとき』(みすず書房、2009年)より


◆海が絨毯や絵画のように、くるくる巻いて持ち運びし、しまっておくこともできる、という発想が面白い。ダリの絵のように。

さらに「わたし」は、船のように「吃水線」を持っているのだが、物置に放ってあった「海」のことを忘れているうちに、その吃水線は剝げおちてしまっていた、というのである。


旧作「いちまいの海」を読み返した詩人は、これに促されるようにしてその発展版も生み出すのだが、それについては次回。





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