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「見る」という「事件」[2021年06月15日(Tue)]


「見る」という「事件」

◆3年ほど前に取りあげた美術家・李禹煥(リ・ウファン)の詩集を再読していたら、「見る」という行為をめぐって書かれた詩篇が多いことに気づいた。
作品を生み出す仕事の人であるから、思索をもっぱらとする人のような観照的な視線の働かせ方ではなく、「見る」という行為は極めて能動的である。たとえば次のように――


眼差  李禹煥(リ・ウファン)


ある時 私が石を見ていると 眼差は石の向こう側
まで突き進み 同時に石の眼差もまた 私の背後ま
で突き進むのが分かった やがて二つの眼差が共に
振り向いたとき そこには私も石も居ず 透明な空
間のみが広がっていた



◆「見る」ことが、ここでは手や体全体で対象に力を加えるような働きかけであることが分かる。
加えた力に対して石の方にも応力が生まれる。
従って石の方も「眼差」をもって「私」を見ていることになる。

留意すべきは、眼差は対象の「向こうにまで突き進」むことだ。
「眼光紙背に徹す」というが、ここでは映像を見るのとは違う眼の働きがある。
存在する「もの」の形だけでない、場との関係、場に与え、場から受ける力、それらがはらむ時間までも見ようとしている。
こちらがそのように「見る」以上、石の方もこちらを見ているのは自然なことだ。

◆次のような詩もある。「石」だけではない。樹や大地もまた「私」と「見る=見られる」関係にある。



出来事  李禹煥


そこの石や樹が光を浴びて
名状しがたい出来事にみえたとき
光のなかで僕もすでに
事件に巻き込まれていた


もはや僕は僕ともいえず
対象を見た者ではなく
その場に構成されていた
共犯関係の現実に
拒否の言葉さえ失い
距離の力学を生きていた


石と樹と大地と光と僕と
何も起っていない出来事で
すべてあるがまま
名状しがたい空間が開いていた



◆「何も起っていない出来事」とは矛盾した形容に見えるが、それは「名状しがたい出来事」であるその「事件」を、他の誰かに伝えるにはどう表現するか、模索が始まったからだろう。

他人にとっては「何も起っていない」としか見えない。それを巻き込んで、「見る」という能動的な行為を作用し合う関係の中に入るよう働きかけること、それが表現ということになる。


『立ちどまって』(書肆山田、2001年)より


【参考:過去の記事から】

李禹煥の詩[2018年5月25日]
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/866

鎌倉近代美術館 その1[2016年1月25日]
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/244



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