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鶴見俊輔「この時」[2021年06月06日(Sun)]

◆いつとなく自分にとって分かりよい詩を選んでしまっていると思うことがある。
そんな時でも、探せば分かりよくない詩はちゃんとあるものだ。



この時   鶴見俊輔

宇宙の底に
しずかにすわって
いると思う時がある
この自分が まぼろし

私の眼にうつる人も
ここにいる時はみじかく
いない時の中に
この時が 浮かぶ



池澤夏樹個人編集『日本文学全集29 近現代詩歌』(河出書房新社、2016年)より


◆「宇宙の底」を感覚する、ということが自分にはついに訪れないだろう、という気がする。
想像することはできなくはないように思えるが、ストンと腑に落ちるに至らぬままだろうと思える。すなわち分かりよくない詩である(難しい言葉は何一つないのに)。

◆第二連、「いない時」とは私たちがいわゆる現実世界から退場した時、ということだろう。
だがその「時の中に」「この時が浮かぶ」、となると、別の意味で分かりよくない。
「この時」とは現実世界に在って「宇宙の底に/…すわって/いると思う時」を指す。
〈そのように自分が生きて感覚している時〉が〈自分のいない時の中に〉浮かぶ、というのだ。
時が入れ子構造を成す、ということだろうか。

現在の中に過去が並存したり混在したり、ということはしばしば経験することだろう。
だが、この詩はそういう状態ばかりを表現しているようには思えない。
むしろ、いま「この時」において、自分が居なくなった時=未来をアリアリと見ている感じである。
それは未来を想像してみるということではない。
同時に、想像上の未来から現在を振り返ることでもない。

現し身はここにもう無いので、重さを失った(重さという厄介なものが意味を成さなくなった)意識だけが二つのシャボン玉のような「時」を感覚している。そんな状態であるようだ。

◆しかし、「意識」という当てにならないものを扱っているのではない。シャボン玉はいつか消えるにしても確かに暫し存在する。そのように私たちを在らしめている「時」自体は見えないけれども、シャボン玉同様に確かに在るので、「時」の中に別の「時」が(と言おうか、同じだが移ろい変容した、と言おうか)浮かんでいる、という状態を表現したのだ、ということは分かる。
つまり、詩題にある通り、「時」が主題であって、この確かなものに比べれば、「自分」などは「まぼろし」……ということになる。





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