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川合玉堂「荒海」[2021年03月02日(Tue)]

◆火曜の朝日新聞夕刊は美術関係の記事が載る。
本日の「美の履歴書」という連載で取りあげていたのは日本画家・川合玉堂「荒海」

先日、これを収蔵する山種美術館で観て来たばかりで、いちばん驚いた作品だった。

川合玉堂「荒海」-A.jpg

*2017年に玉堂没後60年を記念してひらかれた「川合玉堂ー四季・人々・自然―」展図録より
(今回は開館55年記念で〈山ア種二が愛した日本画の巨匠〉というサブタイトルのもとに、山種美術館の所蔵する玉堂の作品70点ほどを展示している。今回展の図録は作られていないとのことだった。)


◆何に驚いたのかというと、画面中央の岩から流れ落ちる水の動きだ。
いままさに波が黒々とした岩肌を洗い、ついで幾筋も白い軌跡を見せて水は流れ落ちる。

「瞬間を捉えた」のではなく、脈動する時間が描かれている、と思ったのだ。
手前の激しくはね上がる波しぶき、岩の間に煙るように上がる波、それらが一つの画面の中で交響している。
カメラなら確かに一瞬を切り取って見せるのだろうけれど、この絵はそうではない。
この海を見ている間、ぶつかり合うエネルギーに圧倒されながら、ほとばしり流れる時間の中に身を置いていると感じていた。


森常治「兎」[2021年03月02日(Tue)]

『日本現代詩選2020』(日本詩人クラブ、2020年)は同クラブの70周年記念として編まれた、670ページに及ぶ大部の選集だが、その掉尾、「日本詩人クラブ 先達詩人の詩を読む」と題して故人となられた7名の詩人たちの作品が紹介されている。
その中に、学生時代講義を受けたことのある森常治氏の名前を見出して驚いた。驚いたのはそれだけでない。
常治氏が森鷗外の長男・於菟(おと)の五男であること、日本記号学会の会長職にあったこと、六十歳を越えてから詩作を始めたこと……いずれも初めて知ったことである。

受けた授業の科目名は忘れてしまったが、科学史のような内容であった。と言っても科学史の概説などではなく、科学について触れながら哲学の講義のようだった。後知恵で形容すべき言葉を探せば、「認識論」がテーマだったのだろう。
その後、新聞か雑誌で農業について論じているのを読んだ記憶もあって、我が頭のなかでは理系の人、というイメージが出来上がっていたのだった。

それだけでない、名前について、「つねはる」と読むのだ、とこれも全く思いこんだまま四十数年を過ごしていたのだから始末が悪い。卒業後、早稲田・神田の古書店で〈森常治・訳〉という文字に出くわすことが一再ならずあったのに、いつも「あ、〈もりつねはる〉さんの翻訳だ」と思うだけで、手にとっても中を開いて見ることがなかったに違いない(函入りの翻訳書が多かったように思う)。
正しくは「じょうじ」と読む。これも今回知ったことだ。
幾つになっても忘恩の生学生(なまがくしょう)であることを恥じ入るほかない。

***


兎  森 常治(もり じょうじ)


ぼくらは ウサギのようには死ねない
と 父がよく言っていたものだ
ぼくらは ぼくらの草むらを
祈りで満たすことはできないから
言葉という言葉を
贅沢なものにするために
ぼくは いまここに 潜む
めざめた麦のような期待のなかで
意味の実をついばみにきた小鳥たちが
羽ばたきを止めるその瞬間をまつ
鼻孔をふくらませながら

風景を精読したために
赤い眼をもつ者、ウサギよ
音のすだまを探すために
長き耳をもつ者、ウサギよ
おまえの柔らかな毛並みが
夕べの空気を漉くように
ぼくはいま軌道のはずれから
到着したばかりの記号の束をほどき
孵化しはじめた星の意識を漉く

言葉の篝火(かがりび)
幻の炎
啓示の枯葉を燃やすためのもの
祈りに満たされた草むらを
照らし出すためのもの

ぼくらは ウサギのようには死ねない
と 父がよく言っていたものだ



◆ことば遣いは難しいものはなさそうなのに、解読しようとすればいくつもの複合された意味や、語の生成と消滅に伴うイメージの重なり合いや干渉縞まであるように感じられる。

たとえば「ぼくら」は「人間」なのか?
父がよく言っていた「ぼくらは ウサギのようには死ねない」とは、ではどんな死に方が待っているというのか?

詩人の父が森於兎であると知ってみれば、詩中の「ウサギ」は詩人の父の名「菟=兎」に由来するだろう。だがその父である鷗外は、ドイツ語でOttoと綴らせたいことに加えて、中国古代、楚の言葉では「於菟」が「」の意味であることをふまえて命名したという。

とすれば「ぼく」は父同様にウサギを(あるいは小鳥を)屠る虎として草むらに鼻孔をふくらませて潜んでいることになる。

では虎を死に至らしめるものは何か?
さらに、虎の死と星からもたらされる記号としての言葉との関係は?
「言葉の篝火」「幻の炎」「啓示の枯葉」――「の」であっさり連結したこれらの現象はそれぞれ何を意味し、「ぼく」とどう関係するのか?

◆分からないことだらけだが、決して迷宮でないことは確かなようだ。




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