高野喜久雄+田三郎『水のいのち』より「水たまり」[2021年01月08日(Fri)]
◆田三郎が作曲した合唱組曲『水のいのち』、第2曲および第3曲では高野喜久雄の原詩は大幅に変身を遂げていた。
第2曲の「水たまり」について、A=原詩、B=組曲の改作版の順に並べてみる。
A
水たまり 高野喜久雄
轍の くぼみ 小さな
どこにでもある 水たまり
ぼくらは まさにそれに肖ている
流れて行く 目あてはなくて
埋めるものも 更に無い
ぼくらの深さ それは泥の深さだ
ぼくらの言葉 それは泥の言葉だ
泥の契り 泥の団欒 泥の頷き
泥のetc
しかし
ぼくらにしても いのちは無いか
空に向かう いのちは無いか
あの水たまりの にごった水が
空を 写そうとする程の
ささやかな
しかし一途な いのちは無いか
写した空の 青さのように
澄もう と苦しむ 小さなこころ
写した空の 高さのままに
在ろうと苦しむ 小さなこころ
【日本現代詩文庫『高野喜久雄詩集』p.29(思潮社、1971年)より。収載詩集は『存在』(1961年)】
*
B
水たまり 高野喜久雄
わだちの くぼみ
そこの ここの
くぼみにたまる
水たまり
流れるすべも めあてもなくて
ただ
だまって
たまるほかはない
どこにでもある 水たまり
やがて
消え失せてゆく
水たまり
わたしたちに肖(に)ている
水たまり
わたしたちの深さ
それは泥の深さ
わたしたちの言葉
それは泥の言葉
泥のちぎり
泥のうなずき
泥のまどい
だが
わたしたちにも
いのちはないか
空に向う
いのちはないか
あの水たまりの にごった水が
空を うつそうとする
ささやかな
けれどもいちずないのちはないのか
うつした空の
青さのように
澄もう と苦しむ
小さなこころ
うつした空の
高さのままに
在ろうと苦しむ
小さなこころ
【松井慶太・指揮/東京混声合唱団『水のいのち』(フォンテック,2011年)ライナーノートより 】
◆合唱曲版で大きく変わった部分を黄緑色で示した。
原詩では「ぼくら」が3行目に早くも登場し、その自問に比重がかかっていたのを、合唱曲版では「水たまり」を前景に焦点化させ、人間の方は第2連にズラシたことが分かる。加えて「ぼくら」を「わたしたち」に改めた。より広範な合唱者たちに歌われることを想定した改変であろう。
◆「人間」の方を後に移しても問いの言葉は残した。「水たまり」はそれに見入る人間の存在と、それを見下ろす姿勢が必然的に内省へと向かう契機としてそこに在るからだ。
ただし、原詩が「ぼくら」と称しても自問として閉じた印象が強かったのを、「わたしたちは」と改め、問いをたたみかけていくかたちにしたことで、問いはより切実で普遍的な問いかけへと変貌した。
とりわけ、下に赤で示す、問いかけの波状攻撃が印象的である。
いのちはないか
空に向う
いのちはないか
あの水たまりの にごった水が
空を うつそうとする
ささやかな
けれどもいちずないのちはないのか