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振り向く猫―『ドゥイノ・エレギー』第八[2020年12月30日(Wed)]

古井由吉訳『ドゥイノ・エレギー』第八歌から、その冒頭――


あらゆる眼でもって、生き物はひらかれた前方を見ている。われわれ人間の眼だけがあたかもそちらに背を向け、しかも生き物のまわりに罠の檻となって降り、その出口をすっかり塞いでいるようだ。外に在るものを、われわれは動物のまなざしから知るばかりだ。というのも、子供の眼をまだ幼いうちからわれわれはすでにうしろに向かせ、形造られたものを振り返って見るように、動物のまなざしの内にあのように深く湛えられたひらかれた前方を見ぬように、強いているではないか。死から免れている動物。死を見るのはわれわれ人間だけだ。自由な動物はおのれの亡びをつねに背後に置いて去り、前方に見るものは神である。歩めば歩むままに永遠に入る。泉が流れるままに永遠に入るように。

古井由吉『詩への小路』(書肆山田、2005年)p.227

◆この詩への前置きとして古井は、家の中で猫にこちらを振り向かれたことについて述べる。
聴覚、嗅覚、触覚が人間よりはるかに鋭敏な動物は、こちらが接近するはるか手前から「風覚」とでもいうべき感覚を働かせて近づくものを把握しているに違いなく、猫にとって背後から来る家の者の「そこに・ある」など、それが誰で、どういうつもりであるかまで、とうに見えているはず、「手の前にある」とは、ある哲学者によれば、世界の初めになるそうだが、動物はそれをつねに全身で「見ている」わけだ、とした上で次のように続ける――

では、なぜ、振り向くのか。猫の姿に気がついた時に人間の内で、本人の意識を免れて一瞬起こる、何かの変化を感受したのではないか。振り向くのは猫にとってすでに行動の始まりであり、前を見ることのひとつである。
これにくらべて人間の振り向くのは試案――確認、認識、省察、追想などなど、何と呼ぼうと、例えば「見返り峠」などというところで来し方をつくづく振り返る人間にとって、見ることと思うこととは、けっしてひとつにはならない。隙間風の吹く所以である。



第八歌で動物の眼について述べた部分を抜き出すと、次のようになる。

〇 死に近づけば人はもはや死を見ず、その彼方を凝視する、おそらく、大きく見ひらいた動物の眼で。

〇 もの言わぬ動物こそ、われわれを見上げながら、われわれを突き抜けて、その彼方を静かな眼で見る。

〇 おのれの状態を顧みる眼を持たず、純粋なること、そのまなざしにひとしい。われわれが未来を見るところで、動物は万有を見る、万有の内におのれを見る、そして永劫に救われている。



◆人間はこうした動物の突き抜けた眼を持たない。
第八歌の結びは次のように歌われる――

故里を去る者は、親しんだ谷を最後にいま一度残りなく見渡す丘の上まで来ると振りかえり、足を停めてしばし佇む。まさにそのようにわれわれは生きて、絶えず別離を繰り返す。

◆古井の著『詩への小路』には、同音の『死への……』という意味合いも溶け込ませていたのだろうと想像するが、リルケを訳出しながら「索漠」という思いは何度か吐露しているものの、悲嘆や懐旧の気分とは無縁だ。記憶が人間の心にどう作用し、どう表現されるかに関心は向かい、あくまで自問と思索を続けた人のように思える。

この第八歌に添えた感想の結びは以下の通り、簡潔明快だ。

希求法は過去の時制から派生する。夢に限らず予兆も記憶と想起、忘れられた過去の認識あるいは熟知の、前へ回りこんだものだ。
動物は前へ向いて鳴く。人間は本来、どうなのか。





リルケ/古井由吉『ドゥイノ・エレギー』4より[2020年12月30日(Wed)]

古井由吉訳のリルケ『ドゥイノ・エレギー』の4から――


一体、死すべき者たちは、人間たちは、われわれのこの世で為すすべてがいかに口実に満ちているかを、推し量れぬものなのか。
すべてはそれ自体ではないのだ。幼年の時間を振り返るがよい。そこでは、さまざまな姿かたちの背後にはただの過去以上のものがあり、われわれの前方には未来というものがなかった。
いかにも、成長はしてきた。時には、大人であることよりほかに何もなくなった者たちのことを思って、なかばはそのために、早く大人になろうと急ぐこともあった。
それでも、たった一人で行く時には、なお持続するものに自足し、世界と玩具との中間にはさまる時空に、太初より純粋な出来事の場として設けられた境に、あったではないか。




古井由吉『詩への小路』196頁(書肆山田、2005年)。
ただし適宜改行を加えてある。転記しながら、散文家としての訳者のことばの連ね方を、読み手の理解の届く限りで読み下しておきたい気分になったためだが、ご容赦を。

◆第1歌において天使、第2歌において愛しあう者たち、第3歌では母なるものを歌って来て、この第4歌では、子供である「私」の宿命について歌う。

「すべてはそれ自体ではない」という一句は、全宇宙の運行の円環を視たと信じる子供の幻想を打ち砕いて余りある。予告無しの死の訪れを意味する。
彼が視たのは世界のごく一部で、「大人であることよりほかに何もなくなった者たち」から見ればいずれ手放すおもちゃに過ぎなかったとしても、子供が信じたことの純粋さは揺らぐものではない。それをどこまで信じ続けるかだけが問題であり、信じ続ける限り彼は正しく、かつ真実の側(真実を追究する側)にいる。


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