
前触れもなく飛来するもの[2020年10月31日(Sat)]
ヒメツルソバ
*******
小禽賦 安西均
この老年の、無為で
つまらない日常にも、
ふいに息を呑むほどの
静寂が、訪れる折がある。
アパートの荒れた裏庭に、
舞ひ降りてきた
一羽の鶲(ひたき)が、軽く
落葉を踏んだだけなのに、
どこか遠い所で、けたたましく
非常ベルが鳴りはじめる。
そのやうな静謐である。
わたしが身じろぎもしないで、
椅子から眺めてゐる目の前に、
それは仮に鶲の形をとつた
〈純粋存在〉であり、
繊い肢でゎづかに歩いてみせ、
そしていづかたへともなく飛去っていく。
このやうな存在との
須臾のふれあい。
鶲よ。この
前触れもなく飛来する、
純粋存在の可憐さは、
幾百光年の彼方からか。
さもなくば、
わたしの死後の森からか。
安西均『チェーホフの猟銃』(新装版 花神社、1989年)より。
◆一羽の鶲が落葉を軽く踏んだだけなのに、遠くで非常ベルがけたたましく鳴る、という静けさの表現が印象的だ。
静寂を感得させるのは、何かのかすかな音だ。それは一滴の水が波紋となって池を波立たせるように、大きな音の円となって耳と目と体全体を驚かせる。
そうして、幾百光年か、数ヶ月先、あるいは数日先、ひょっとして数刻先かも知れない未来が確かにあって、そこに「わたし」が歩み入ることになることを直覚させる。