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詩と夢[2020年10月11日(Sun)]

◆今年のノーベル文学賞はルイーズ・グリュックというアメリカの詩人に、とのこと。
残念ながら日本ではまとまった紹介がない。

手元に今年初めに出た原成吉氏の『アメリカ現代詩入門 エズラ・パウンドからボブ・ディランまで』(勉誠出版)という本の巻末、〈ベスト・アメリカン・ポエトリー100冊〉には入っていたけれど。

◆アメリカに限らず、外国映画で詩の朗読場面に出くわすことはずいぶんある。会話に引用された詩の一節が、相手の琴線をふるわせて物語が新たな展開を見せることも少なくない。
気の利いたセリフ同様、豊かな時間に浸される気がする。
ひるがえって日本の詩と映画の関係はどうだろうか。

◆学術同様に、ある言語の活力や豊かさは、それを用いる人々の多様性に支えられるように思う。
いくら「ハンコ」社会を脱しようと努めても、推進しようという政治の言葉がどれも判を押したように多様さも奥行きもないようではなあ。

*******


◆1996年のノーベル文学賞を受けたポーランドの詩人、シンボルスカの詩を沼野充義の名訳で一つ。目で読んでも耳で聴いてもアイマイさの全くない、かつ繰り返し味わうように導いてくれる詩だ。


現実  ヴィスワヴァ・シンボルスカ
         沼野充義訳

現実(うつつ)は逃げていかない
夢が逃げていくようには
どんなざわめきも鈴の音も
現実を追い散らすことはない
どんな叫び声も轟きも
現実と手を切ることはない

夢のなかの光景は
ぼやけていてあいまいなので
たくさんの違った流儀で解釈できる
現実は現実を意味するだけ
でもそれこそがより大きな謎

夢を開くには鍵がある
現実はひとりでに開き
閉じることができない
現実からは学校の証明書や
星が降り注ぎ
古いアイロンの魂や
蝶や、頭のない帽子や
雲の頭蓋骨が
落ちてくる
そこから謎解きのできない
判じ絵が生まれてくる

私たちがいなければ夢もないだろう
その人なしには現実もない、そんな人物は
いったい何者だろうか
そして、その人の不眠の産物は
他の人が目覚めるとその誰にでも伝染していく

夢が狂っているわけではない
狂っているのは現実のほうだ
たとえそれが、物事の流れについていこうとする
頑固さのせいだとしても

夢のなかではまだ
最近死んだ人が生きている
それどころか、若さをとりもどし
健康であったりもする
現実はわたしたちの前に
死んだ人の死んでいる体を置く
現実は一歩も後に引こうとはしない

夢はあまりにはかなく軽やかなので
記憶はやすやすと夢を振り落としてしまう
現実は忘却を恐れなくてもいい
それはなかなかしたたか者
人の首筋に腰をおろし
心臓に重くのしかかり
足もとに倒れかかる

現実から逃げることはできない
いくら逃げてもそれはついてくる
そして、わたしたちの旅の道のりには
現実が人を待ちかまえていないような駅は
ひとつもない


*ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷、1997年)より


◆現実は仮借なく人間の行く先々に待ちかまえているが、それがどんな幻影で惑わそうとしても、生きている限り夢を追うことを決してやめないのが人間という生き物だ。






明治43(1910)年10月10〜11日の夏目漱石[2020年10月11日(Sun)]

◆明治43(1910)年、修善寺大患後の夏目漱石の漢詩をいくつか読んで来たが、10月10日は次のような七言絶句を詠んでいる。

無題 明治四十三年十月十日  漱石

客夢回時一鳥鳴 
夜来山雨暁来晴
孤峯頂上孤松色 
早映紅暾欝欝明


客夢回(かえ)る時一鳥鳴く  
夜来の山雨 暁来(ぎょうらい)晴る
孤峯頂上 孤松の色 
早く紅暾(こうとん)に映じて欝欝と明らかなり


吉川幸次郎『漱石詩注』(岩波新書、1967年)から語注ほか引いて置く。

客夢…たびびとの夢
回る…さめる
暁来…夜があけると
紅暾…赤い朝日


◆吉川幸次郎の『漱石詩注』は、「鬱鬱」という畳字(同字を繰り返した語)のほか、「夜来/暁来」、「孤峯/孤松」など同じ字を重ねるのは、〈同一の字を二度使ってはいけないという近体詩の通例の禁忌の外にあるもので、ことに喜悦の詩には、こうした句法が…しばしばある。〉として、杜甫の「二月已に破れて三月来たる」を同様の例として挙げている。
 「漫興九首」と題する絶句九首の其四

してみれば、ここの「鬱鬱」は気が塞ぐのでなしに、草木がこんもりと茂るさまを表現しているのだろう(「鬱鬱」には気が盛んなさま、という意味もある)。

療養のための修善寺転地が大吐血によって予期せぬ長期の滞在となったが、病状の安定と体力の回復をまってようやく帰京することとなった、その嬉しさを率直によんだものだ。
この日の日記には「愈(いよいよ)明日東京へ帰れると思ふと嬉しい」と記したのに続けてこの七言絶句を記す。

床に臥したままの旅人の耳に朝の訪れを告げたのは鳥のさえずり。
外に目をやると朝日に照らされて峯の一本松が見えた。夜の間も静かに見守ってくれていたのだろう。
山全体はまだ朝もやの中に黒々と沈んでいるものの、一本松に続いて、生彩を取り戻して輝き始めるだろう。

◆この詩に続けて次のような句も詠んでいる。

足腰の立たぬ案山子を車かな

この日1910年10月10日月曜日の修善寺は朝焼けののち曇り。

いよいよ帰京となった翌11日はあいにくの雨ではあった。
長逗留となった修善寺菊屋の二階から白布で蔽われた「橇の如きもの」に載せられそのまま馬車に乗せられたさまを「わが第一の葬式の如し」と11日の日記には書いているが、陰気ではない。帰京後そのまま長与病院に入院となる段取りも承知だが、詩も俳句も諧謔の気分といえるだろう。

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