藪中の椿の実[2020年07月21日(Tue)]
◆車を走らせているとやぶの中に青く丸い実がいくつかぶら下がっているのが見えた。
色んな葉が見えて何の実なのか、良く分からない。
帰宅後、改めて現場を訪れて最初に撮ったのが上の一枚。
蔓性の植物など入り乱れていて、これだけでは分かりにくい。
殆ど藪になっているのを目で解きほぐすようにして右手の藪陰に回って見たら、色づきかけた実が葉っぱとともに顔をのぞかせた。
渋くかつ艶やかな茶色の実と、それを包むような鮮やかな緑の葉が釣り合っている。
茶の湯のたしなみなど持ち合わせないが、茶席にさり気なく置いて点ずるのも似つかわしいのではないか。
◆それにしても最初の青い実たちは、葉の掩護もなければ枝々の支援もない。日照に恵まれず、色づくのも遅いのだろう。有り難くない環境に根を張った結果の「青成」たちではある。
だが、どうだろう。季節が移り周りの蔓が葉を落とす頃には、数等頼もしい姿に変貌しているのではないか。
あるいは何年か先には、藪の勢力争いに変化が生じているかも知れないのだし、別様の共生状態を見せているかも知れないではないか。ある時点の姿をとらえて憶測しても始まらない。
せっかちな人間はやはり木に及ばない、と思い直した。
◆新井豊美のエッセイ〈「空虚」を抱く行為〉に次の一節があった。
木は自ずから立っている。
ひとは木のように立つことができない。
この2行には、さらに次の言葉が続く。
木のようには立つことができない「わたし」が、言葉に支えられることによって僅かに立つのである。いや、その木さえ言葉によって示されたものではなかったのだろうか。
*現代詩文庫『新井豊美詩集』(思潮社、1994年)より
「言葉」という語が「葉」という文字を含むことには、そう表現してきた人々に共有された「ことば」というもののイメージがきっとあるだろう。