田んぼの水入れを前に[2020年05月31日(Sun)]
アレチハナガサにモンシロチョウ
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◆例年なら5月最後の日曜日は地域総出で用水路のドブさらいがあるのだが、コロナ禍のあおりで今年は中止となった。雨で流れたこともほとんどなかったと記憶するし、自分の仕事の都合(たいていは部活動で試合の引率だった)で参加できなかったことはあったにせよ、こうした中止は殆ど初めてのこと。
それでも農家の人たち共同での草刈りはいつものように行われ、田植えに備えている。
◆夕方の相棒との散歩で声をかけられて振り向くとご近所の人。
鍬を携え、自転車で田んぼに向かうようだった。
明日は境川の水が引き込まれて一面に水鏡が広がるだろう。
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時間の音 大橋政人
田んぼの水入れをするのは
子どもたちの仕事だった
水がまわるまで一時間も田んぼを見ていた
岡登用水から引かれた細い川は
だいぶ前にU字溝に変わったが
今でも同じ所を流れている
そのU字溝に沿って
毎朝、犬を連れて歩く
資材置き場になっているここは
タカノさんちとの結い仕事で
小学生の私が
初めて牛の鼻面取りをした田んぼだ
あのときの握り飯のうまかったこと
場所が固定されると
時間ばかりが動き出す
時間ばかり轟轟となだれ落ちてきて
その音の中に立ち尽くすこともある
『朝の言葉』(思潮社、2018年)より
◆岡登(おかのぼり)用水は群馬県みどり市。
詩は上毛新聞に連載されたものの一つ。
最終連「場所が固定されると/時間ばかりが動き出す」という表現がおもしろい。
現代人は故郷を離れてのち居所を定めぬ生き方を選ぶゆえに「動き出す/時間」を体験できなくなっている、という批評もここにはあるのだろう。
◆時間が動き出すきっかけは水の音だ。
いつの間にか自分は、水をたたえていく田んぼをじっと見ていた少年になっている。そうして周りには大人たちの立ち働く姿があった。
「場所(トポス)」には個と集団の歴史がある。それは孤立した個の主観ではなく個を含む集団の記憶である。