「忘れちゃう」との切実な声[2020年05月07日(Thu)]
ケヤキの新緑が目にしみる季節となった。
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◆公園で高校生数名が語らっていた。久しぶりにみんなで待ち合わせしたようす。
一人がつぶやいた――「忘れちゃう……みんな」――まわりの子たちもうなずいた。
「みんな」とは、クラスメイトや部活動の仲間のことだけではなかったかも知れない。
「学校」というものがある、ということすら忘れてしまいそうだ、という嘆きではなかったか。
神奈川の県立高校の場合は5月末まで休校状態が続く。
大人たちは手をこまぬいたままであるように見える。
黒岩神奈川県知事は小池東京都知事同様に「9月入学」に前のめりのようだが、ここでそのような議論に労力と時間を費やしている余裕はない。
前川喜平氏(元文部科学事務次官)が指摘する通り(5月3日付け東京新聞「本音のコラム 9月入学より学校再開を」)、「9月入学」については文科省で過去に検討し尽くしてある。
場所、教員、予算…いずれも小学校から大学生までを巻き込まずに置かない話だ。
いま現実に宙ぶらりんの状態のまま、先の見えない(示されない)不安にさいなまれている子どもたち自身をどうするのか。
彼らを支える家庭自体が困難な瀬戸際に立たされているときに、力を注ぐ先を拡散させるような愚は避けねばならない。自治体の首長の多くが一部の声に飛びついておかしな方向になだれ込もうとするのはどう逆立ちして考えても、オカシイ。
たとえば高校3年生。
就職、進学いずれであっても、例年であれば進路希望を絞り込む時期だ。それには確かな情報が必要なのに、企業の採用情報、今秋〜来春の推薦や受験の帰趨、どれをとっても確実なものが手元にない。
一方で学校再開に踏み切った県もある。
この上さらに一カ月も自宅待機を余儀なくされる子どもたちにとっては、置き去りにされる気分だろう。彼らの不安と苦悩を解消するための施策が圧倒的に不足している。
大人の想像力と判断力の不足というよりは、その全き欠如を示していると言うほかない。