真壁仁〈稲の道〉[2019年10月06日(Sun)]
刈り入れの進む田んぼに白サギの姿が増えてきた。
今年の稔りを検見(けみ)しているかのようだ。
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稲の道 真壁仁
メコンの流れがあふれている
昆明*の奥の思芽(しぼ)*という湿地から
友だちが持ってきてくれた野生の稲の穂一本
芒(のぎ)がひどく長くて
そのはじっぽに
縄文紀の光りがきらっと見える
そこでは紅米を
青竹の筒で蒸して食べていたそうだ
稲の道は東へ南へ河に沿ってくだった
揚子江をくだった奴が
黒潮にのっておれたちの列島へ渡ってきた
対馬の豆酘(つつ)という村*では
今も昔の赤米を祀っている
四月吉日 種おろし
半夏生*あとさき 田植え
十月十七日 お吊りまし
十月十八日 初穂米
十二月三日 斗瓶酒(とがめざけ)
十二月十九日 ヒノサケ
潮の干満(みちひ)を知るために壱岐も対馬も
旧い暦が生きていて
月神も祀られている
酉(とり)年のヒノサケは一月二十四日だ
受け頭屋(とうや)*では麦の濁り酒が汲みかわされる
おれが豆酘村へ飛ぶ日だ
親潮の岸まできた悲運の稲の
始原と終焉を語り合うため……
*【註】
*昆明・思芽…ともに中国・雲南省
*豆酘(つつ)村…長崎県下県郡にあった村(現在の対馬市厳原町の南西部)
*半夏生(はんげしょう)…夏至から11日目、田植の終期
*受け頭屋…祭礼やなど神の接待を担う役目(頭屋)を翌年に引き受ける者
真壁仁(まかべ・じん。1907-84)の最晩年の詩集『冬の鹿』(1983年)所収。
小海永二編『現代の名詩』(大和書房、1985年)に拠った。
◆稲作に関わる季節の運行やその節目節目に行われてきた行事は、農を離れた現代人の理解の外に遠ざかった。
それゆえ農民詩人・真壁仁が意図したような農の営みの起源に遡(さかのぼ)ることは極めて困難になったように見える。
だが、考えようによっては、細かな違いにとらわれることが少なくなった、とも言えるわけで、習俗に泥(なず)んで硬くなった頭をほぐし、泥濘の呪縛からも足を自由にするならば、太古の人間たちのはるかな旅に思いをこらすだけでなく、父祖らの旅を遡行し、違い以上に似通うものの少なくないことをつぶさに知り得る時代になったと言えるかもしれない。
あくまで想像力を正しく働かせさえすれば、だけれども。