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〈口に出して語られない限り〉[2018年11月13日(Tue)]

寺山修司ガルシア・ロルカの死生観について書いていた(「黙示録のスペイン――ロルカ」)。

ガルシア・ロルカは二度死んだ詩人であった。
一度目は、彼自身の詩の中で死に、二度目は、スペインの内乱で、フランコ軍に処刑されて死んだ。彼の死んだ一九三六年に生まれた私は、いつからか彼の創り出した死の世界にひきこまれ、彼が開けておいたバルコニーから、夜ごとせせらぎのきこえるグラナダの町へと誘いこまれて行くのであった。

 ぼくが死んでも
 バルコニーは開けておいておくれ

と、ロルカは書いていた。


(略)

生と死のあいだには、バルコニーのドア位の仕切りしか存在していない、というのがロルカの死生観であり、しかも信じられないことに、ロルカは「生と死は対立関係ではなく、場所が違っているだけのこと」だと、考えていたのだった。

◆こうした記述に目が留まったのは辺見庸『月』が頭の半ばを占めているからだ(その実、読まぬまま16日を迎えそうな心配さえある)。
従って、ここから先は小説『月』とはカスリもしないどころか、全く関係ないことがらとして、『月』を読む手前の足踏みでしかなく、寺山の小文からの引用は、逡巡している間の埋め草に過ぎない)。

グラナダの月夜に、酒場にぼんやり坐っていたりすると、生の高揚のために死が基底にあるというのではなく、死と生が同じ高みにあって、ときどき風の向きによって、すべての人が死んでいたり、すべての人が生き返ったりするのが、よくわかるのだった。

お月さまが死んでる、死んでいる
だけど
春にはよみがえる


◆このくだりをここに引く理由も、辺見庸の小説とは〈月〉という一文字が共通だという以上のものは無い。

「風の向きによって/死んでいたり/生き返ったりする」ような生や死とは、棒の先に貼り付けた紙の裏表が生の顔と死の顔に描き分けられていて、それをひっくり返して演じられる影絵芝居か人形芝居の見物人のように「生」と「死」を観照しているだけのことで、当時者性は乏しい。

続けて寺山は、ル・クレジオとスペインを旅した折のやりとりを記す。

私は、ル・クレジオに、「生が終わってから死が始まるのではないと思うよ」と言った。「死は、生きているものの作り出した虚構にすぎないのだから、生が終わったら死も終ってしまうのだと思う」と。
だが、それでは死は生に従属してしまうことになり、生きている者によって操作されることになってしまうことになるのではないだろうか、とル・クレジオは言った。
たしかに、「死は一日のうちにもやって来て去り――やってくる」のだということが、スペインにいるとよくわかった。それはフランコ圧政への暗喩などではなく、もっとなまなましい土の記憶のようなものなのであった。
 


ル・クレジオが返して寄越した疑問は、寺山がロルカのことばをなぞりながら述べた感想が傍観者のようであることに向けられている。
「死は生に従属し、生きている者が死を操作している――それで君は平気なのか?」とたたみかけて質したかったのではあるまいか?

「なまなましい土の記憶」と言いながら、スペインの土と寺山の棲む国の土とは別物として片付けている。
しかし「ふたつの死」という着想を得て、ようやく寺山は扉のノブに手をかけることになる――「死を言葉にすることの意味」について考える場へと足を踏み出すために。

私は、ロルカの詩の中のスペインと、観光旅行案内地図の中のスペインとのあいだにいて、考えない訳にはいかなかった。死は、もしかしたら、一切の言語化の中にひそんでいるのかも知れないのだと私は思った。
なぜなら、口に出して語られない限り、「そのものは死んでいない」ことになるのだからである。


◆最後の一文は、「なぜなら」と理由を述べる言い方で前の文を承けているのだが、この接続詞は正確でないと思う。「死は言語化の中にひそんでいる」と、「口に出して語られない限り、『そのものは死んでいない』」、この二つは同じ事柄の言い換え=同語反復であるからだ。
「言い換えれば」もしくは「つまり」でつなぐのがスジだろう。

◆だが、こうしたあげつらいは大して意味がない。
それより、寺山の文章が逢着した、〈この世には生と死があるのではなく、死ともう一つの死があるのだということ〉、及び〈口に出して語られない限り、「そのものは死んでいない」〉という考えは、扉の向こうに足を踏み入れるためのドアの鍵であり、それを手にした以上、もはや傍観者のままでいることはできなくなる、ということを意味する。
「そのものは死んでいない」という言葉はこの場合、「未だ生きている」ことを意味しないだろうけれど、では「死ぬことができないでいる」ということであるのか、あるいは「生きた、と言うことすらできない」ということなのか、あるいは、それらと全く違う別の意味を持っているのか、明らかでない。

〈口に出して語られたもの〉に耳傾け、眼で視ることが必要になる。

*「黙示録のスペイン――ロルカ」は寺山修司エッセイ集『私という謎』に入っている(講談社文芸文庫、2002年)。


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