
横浜米軍機墜落事故から40年[2017年09月27日(Wed)]
サルビア(日大・生物資源科学部の農園付近で)
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忘れてはならない土志田和枝さん母子のこと
◆1977年9月27日に横浜市緑区荏田町(現・青葉区荏田北)に厚木基地から飛来した米軍のジェット戦闘機が墜落した。明日で40年となる。
この事故については2年前に当ブログに書いたことがある。
★「愛の母子像―1977年9月27日」
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/188
大和市米軍機墜落事故
◆さらにさかのぼる1964年の9月8日には大和市の舘野鉄工所に米戦闘機が墜落、5名が死亡、3人が重軽傷を負う事故があった。
厚木基地問題に関するサイトで知ってはいたが、半世紀以上を経て風化しつつあるのでは、と危ぶんでいたところ、今朝の東京新聞が取り上げていた。
この9月24日に、事故を語り継ぐ「市民の集い」が行われたのだ。
ところが驚くべきことに、これまで後援して来た大和市が、集会の後援を見送ったというのである。
★【東京新聞 神奈川版】
大和米軍機墜落 市、追悼集会の後援見送り
⇒http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201709/CK2017092602000164.html
◆後援見送りの理由は「事故には多様な意見がある」というもの。
「異論があるから止める」という後ろ向きの姿勢が解せない。
記事によれば、事故跡地を慰霊の広場にと求めた陳情をめぐる市議会の議論が原因のようだ。
「事故を忘れたい人もいる」と述べた議員もいたという。遺族や被害者の心情を配慮して、という言い方がこうした場合に出てくる。
だが、当事者の苦悩に寄り添うと見せかけて実際は「臭いものにフタ」で無かったことにしたいのではないか。「忘れたいのは(当事者でなく)あなたご自身では?」と当の議員に訊いてみたい。
◆77年の横浜の墜落事件の場合も、遺族の土志田勇さんが「愛の母子像」建立にようやくこぎつけたものの、当初、事故の説明板は設置しないよう条件が付けられたため、像を見て怪訝な顔をする人が後を絶たなかった。
米軍への気兼ね・忖度が強く働いたわけだ。
1964年には
◆大和市に墜落した直前(同じ9月8日午前)には、相模川に米機F105が墜落し乗員2名が亡くなっている。
この64年は、4月に町田市原町田にもF8U-2が墜落して市民4名が犠牲になり、30名余の重軽傷者を出している。復帰前の沖縄・嘉手納基地から厚木基地に飛んで来たものだった。
★【タウンレポート(2009年4月2日タウンニュース】記事参照
〈45年前の大惨事 米軍機墜落〉
⇒http://archive.is/sWvSK
また、この64年は神奈川県内だけで8件もの米軍機墜落事故が起きている。
第18回オリンピック東京開催(1964.10.10)を目前に控えて大変な受難が続いた年だったわけだ。
◆基地ある限り、事故に見舞われる恐怖は消えない。
かつてない極東の緊張状態に直面している現在はなおさらだ。
危険をゼロにする努力をワキに置いて、慰霊・追悼に制約を加えるのはどうみても逆立ちしている。(と入力し終えたところで、深夜の空をまたぞろ飛行機が飛んで行った。)