正岡子規と陸羯南[2017年05月14日(Sun)]
◆昨日、正岡子規が新聞「日本」の記者として日清戦争取材に赴いたことを書いた。
その記事「陣中日記」の第1回は1905(明治38)年の「日本」に載った。
また、この時に金州(大連)で詠んだ句「行く春の酒をたまはる陣屋哉」の句碑が大連市金州区の金州副都統衙門博物館の構内に建っているそうだ(下記写真。2015年日本新聞博物館での「孤高の新聞「日本」ー羯南、子規らの格闘」展図録による)。
遼東半島・金州で鷗外と語らった一夕を詠んだ句であろうか。
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発行停止処分も辞さない政府批判
◆新聞「日本」の創刊は1889年の2月11日。つまり大日本帝国憲法発布式当日にぶつけたのである。
政党の機関誌や営利新聞ではなく「独立新聞」たらんと宣言し、新聞記者は「官の命」「民の託」も受けず「道理」のみに従うと述べた。
政府に対して遠慮や忖度のない批判を展開、それがために計30回、230日にも及ぶ発行停止処分を受けたが、社主・陸羯南(くがかつなん)はひるむことなく新聞紙条例の改正運動を展開して行った。
(以上「孤高の新聞「日本」ー羯南、子規らの格闘」展図録による)
◆羯南(1857~1907)の存在なくして正岡子規の短歌・俳句の革新はあり得なかった。
「獺祭書屋俳話」「歌よみに与ふる書」、晩年の随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」、いずれも「日本」を発表の舞台としたのである。
東京・根岸に家を接して住み、子規を経済面でも精神面でも支え続けたのが羯南であった。
神奈川県立近代文学館の「正岡子規展」には、二人の家族ぐるみの交流を物語る絵があった。
「仰臥漫録」の「チマ・チョゴリの少女の図」である。
1901年9月5日(虚子記念文学館編「仰臥漫録」、2002年)
◆清・韓視察から帰国した羯南が韓国皇帝から下賜されたチマ・チョゴリを娘に着せ、子規に見せてやろうと妻君とともに子規宅を訪ねさせたのだった。
このとき衣裳をまとったのは羯南の当時8歳の四女・巴(ともえ)であった。
その経緯と子規の感想が、美しさを愛でた句とともにしたためられている。
午前 陸妻君巴サントオシマサントヲツレテ来ル 陸氏ノ持帰リタル朝鮮少女ノ服ヲ巴サンニ着セテ見セントナリ 服ハ立派ナリ 日本モ友禅ナドヤメテ此(この)ヤウナモノニシタシ。
芙蓉ヨリモ朝顔ヨリモウツクシク
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羯南をめぐる人々
◆陸羯南の功績は多くの新聞人・文化人を育てた点にもあるだろう。同郷の青森県人で日本新聞社に入社した人物には佐藤紅香A後に「東奥日報」の初代主筆となる成田鉄四郎らがいた。
子規とのつながりで入社した愛媛出身の人物も多い。子規を献身的に看病した河東碧梧桐や寒川鼠骨らである。
◆羯南が病を得て資金難に陥った日本新聞社は1906年、「日本」を売却することになった。羯南とともに理想に邁進してきた社員は経営方針の変更に抗議して一斉退社、各地の新聞各社に散ることとなった。その一人に丸山幹治がいる。「京城日報」「大阪朝日」を経て*「大阪毎日」で活躍するジャーナリストである。その次男が政治学者・丸山眞男(1914〜96)である。
*1918年の「白虹事件」(大阪府警による言論弾圧事件)に抗議して丸山幹治は長谷川如是閑とともに大阪朝日を退社した。
◆羯南は1907年、鎌倉極楽寺の別荘で死去。まだ49歳という若さであった。
丸山眞男はのちに陸家の人々を鎌倉・極楽寺に訪ねて旧交を温め、その折の座談が本になっている。
★「丸山眞男話文集 続3」に収める「陸(最上)家訪問録−陸羯南との出会いを辿って」
(丸山眞男手帖の会編、みすず書房、2014年)
*羯南の四女・巴さん(最上姓となった)もまじえた座談。なお、巴さんは子規にチマ・チョゴリ姿を描いてもらった時の鮮明な記憶を子規全集月報などで証言している。
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羯南の書「名山名士を出だす」
名山出名士 此語久相伝
試問巌城下 誰人天下賢
後進への𠮟咤督励の五絶。
「巌城」とは岩木山のことである。
*「孤高の新聞「日本」ー羯南、子規らの格闘」展図録より(東奥日報社・愛媛新聞社発行、2015年)
【関連記事】M君に(2014年11月17日)
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/67