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「祖母のうた」1:神(天子)のあそびが死者を生む[2026年09月03日(Thu)]

◆木村迪夫(みちお)のエッセイ「東北の死者と伝承――自家小史の内側から――」には、前回紹介した「祖母のうた」が生まれるに至る自家の歴史を綴る。
祖父たち夫婦が本家から分かれたのは大正二年、田や畑を少しずつ買い求め、あるいは荒蕪血を拓くという困窮した暮らしの中で十人の子を産んだものの、そのうち四人は水子としてこの世の光を眼にすることもなく、四歳まで生きた長男も栄養失調で死んでいる、という。
生き残ったのは男二人に、女三人。詩人の父・文左エ門は明治四十五年生まれだが、生き残った他の四人の出生年は全て大正七年以降だという。分家してから五年にしてようやく「生き得るほどに、食わせることが出来るようになった」のだろうと記す。

そのようにして自家を打ち建てつつあった一家の大黒柱が徴兵される。戦況押し詰まった昭和十九年に応召し大陸へと渡った父、敗戦となり、その帰還を待つ家族を見舞ったものは――



神(天子)のあそびが死者を生む

にほんのひのまる
なだてあがい
かえらぬ
おらがむすこの ちであがい

ムラうちの五平さんが、兵隊から還ってきたのは、昭和二十一年の春である。――遅い春で、田植ごしらえに追われている五月も末であった。「吾助おやじんとこの息子が還ってきた」。隣近所の誰かれなく、吾助おやじの戸口に駆け集まった。
五平さんは、志願兵だったから、若かった。多分二十一歳か二歳ほどではなかったろうか。
「おらえのは――」
「おらえのブンザエモンは――」
戸口の敷居を越えることも、背嚢を下ろし、軍靴の緒を解くことも出来ないほど、疲れきってしまっている五平さんに、わたしの祖母は浴びせかけるように訊き迫った。五平さんはわたしの父と同じ昭和十九年の入隊で、中隊こそ違っていたが、同じ大隊で、中国大陸の戦地を闘っていたのだ。父と顔見知りのムラ人は五平さんばかりではなく、上の部落の大門にもいた。山の根の菖蒲部落にもいた。楢下部落にも、三上部落にもいた。ことに楢下部落の庄内屋(屋号)の息子は、父の直接の部下であったという。
父の死を知った祖母は、三日三晩泣きとおした。この家に嫁いで来て五十年この方、一桑も手をぬいたことのない祖母が、昼桑も夜桑も与えようとせず、蚕棚の下で顔をうずめて泣いた。夜、寝床にも入らず、もんぺも脱がず、着のみ着のまま蚕棚によりかかって、泣きつづけた。
「ばばはん、まま(飯)くてけろ」
わたしの母親の呼びかけにも、耳を借すことも、応じることもなく、泣きつづけた。
「ばばはん、まま食えズ。死んでしまうべな」再度うながす姉の声がけにも、「死んだほえ、死んだほえ」と、泣き声で答え、食膳に向うことを否んだ。
ウエ―キ島で戦死したと伝えられた叔父(父の弟)の 葬式は、それよりひと月前の四月八日に、済ませたばかりであった。昭和二十一年四月八日、その葬いの最中に兄であるわたしの父が、中華民国湖北省黄崗県余加湾で、このムラと家を想いながら、息を引きとっていたとは、遺された家の誰にも思い及ばないことであった。後年祖母は、これを「天子さまのいたずらじゃあ――」、「むごいあそびじゃあ――」天子さまはおらえのうづをば見捨てた、として神棚に手を合せることがなくなった。胃癌を患い、七十四歳で死に至るのだが、ついに<天子のむごいあそび>とする思いは変ることがなく終ってしまった。
しかし良一叔父の戦死(戦病死―飢餓死)の知らせをうけた時点では「良一はおんづこ*1だがら、しょうねえ。あいづが死んでもうづ(家)はつぶれね。文左エ門さえ帰ってきたら、このうづは潰れるこどはねえ――」、そう言い、「天皇陛下のため、名誉の戦死したんだ。良一はお国のために死んだんだ、とも自身に言いきかせ、赤飯を炊いて、その死を祝った。祝いながらも一方では、「あいづは、もつごい(かわいそう)なヤヅだった。十六の齢でボルネオまで丁稚奉公に出され、兵隊検査で帰って来たと思ったら、すぐまだ南洋の島ダ。さっばりのんびりなどする暇などなくて死んでしまた――と、にわか炊きの赤飯を口に運びこむことをためらいながら、つぶやくのであった。

 夢をみたみた
 夢をみた
 百圓札を 山とつみあげた
 夢を みた

これは、良一叔父が、尋常高等小学校を終り、ボルネオに発つ前夜、祖父と抱き寝をしながら口ずさんだ唄だという。
祖母は良一叔父のために、むかさり絵馬*2をマチの絵師にたのんだ。金が少な過ぎたのであるのか、決して出来のいい絵馬ではなかった。何日か押し入れを利用した仏壇に立て掛けてあったが、しばらくしてから風呂敷に包み、曲った背腰にくくりつけ、ムラの寺に納めに行った。いま、わたしは、所用で寺に足を運ぶたびに、本堂の絵馬を見てまわるのだが、なぜか良一叔父の絵馬を発見することが出来ないのである。(これは明らかに、奉納金の額と、ムラ社会の階級および権力構造が、ここでもはたらいていたことを立証している)


*1…(跡取りではない)弟
*2…未婚で亡くなった者を供養するために、婚礼の姿で描いて奉納する絵馬

  日本現代詩文庫『木村迪夫詩集』(土曜美術出版社、1995年)より

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