谷川俊太郎「み」 その〈ぶきみ〉[2026年08月08日(Sat)]
み 谷川俊太郎
みつめる
かみに
みえぬ
かみ
ふかみに
みるか
やみの
えみ
このみの
このみの
あまみと
しぶみ
みすごす
ごみの
うきしずみ
むいみの
ぶきみ
とみの
つみ
いみの
しがらみ
うのみ
まるのみ
『今日は昨日のつづき どこからか言葉が』(朝日新聞出版、2025年)より
※初出は2022年1月5日朝日新聞
◆谷川の『ことばあそびうた』同様に、ひらがなばかりの一篇。
音素の数が少ない日本語は同音異義語が多い。そのために誤解も生じれば、地口やダジャレで遊ぶこともできる。和歌では掛詞(かけことば)という技巧の洗練も生んだ。
詩でひらがなばかり用いる場合、誤解が生じないよう慎重に吟味する場合もあれば、逆に読み手が一瞬アレッと立ち止まり、ウームどっちだ?と思案することを作者は狙ったんじゃないか?と思わせる場合もある。
この詩は後者の要素を多分に含む。
◆冒頭の「かみ」にしてからが「紙」「髪」「神」のいずれでも良さそうに思える。
「みえぬ/かみ」は「神様」のことと絞り込めるように思うものの「みえぬ/髪」だったら鏡の前で嘆くオジさんの姿を想像して思わず口元がゆるむ。
それが「やみの・えみ」にまでつながっているとしたら、「みえぬ/かみ」ゆえに世を震撼とさせる事件が連続するサスペンスドラマさえ想像してしまうではないか。
◆第三連、「いみ」というものにとらわれて翻弄されたりヤケを起こしたりする人間たちの戯画として読みたくなる。
とみの例として、「いみ」のない短句を連発する某ぼうえいだいじんや、某そうりだいじんの「非核三原則」見直し示唆発言の「ぶきみ」さに身震いするうちは未だ良い。
お上に歯向かうのは「忌み」すべきこととして身がらみ骨がらみ「うのみ/まるのみ」しようとすればするほど、こころは「やみにやんで」、遂には深い井戸のやみの底に「ごみ」のように「うきしずみ」しているほかないのじゃないか?



