中味の伴わない「誠」[2026年08月06日(Thu)]
◆ヒロシマの日だ。
藤沢市の広報からもアナウンスがあり、午前8時15分、TVに映る広島記念公園で市民お二人が鐘を撞くのと同時に「黙禱」の発声があった。
TVではその後、松井一實・広島市長による「平和宣言」の読み上げ。
核禁止条約への参加と署名を日本政府に求めるのは当然として、画面に映し出される字幕の通りに読み進むのを聞いていて、不本意ながら眠くなった。練り上げた文章ではあるだろう。だが心がこもらぬ朗読は聴く者にしみて来ない。
それでも、最後まで耳を傾けた。
だが終わり近く、耳朶をひっかくようなフレーズがあった。
……本日、被爆81周年の平和記念式典に当たり、原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧げるとともに、核兵器廃絶とその先にある世界恒久平和の実現に向け、力を尽くすことを誓います。
これまで、故アベ首相やその閣僚たちがこうした追悼式や靖国参拝などで判を押したように使ってきた「哀悼の誠を捧ぐ」だ。
(この松井氏は、市職員への訓示の折に教育勅語を用いるとして物議をかもした人でもあった。市民からの是正申し入れを再三受けて、ようやく勅語引用は取りやめたはずではあるが。)
◆これに続くタカイチ首相も「哀悼の誠」一本やりの人物。
右の耳に続いて左の耳も引っ掻かれてはたまらないからTVを消した。
タカイチ氏の挨拶文をネット記事から拾ったら、やはり次のように初めのところでしゃべっていた。
……原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで、哀悼の誠をささげます。……
◆「哀悼の誠」にザワザワした感じを覚えるのは、この言葉がかしこまって硬い言い回しであることよりも、話者に「誠意」や「誠実」さが全く感じられないからだと思う。
この言葉が使いまわされて、帯びるに至った語感および内実の乏しさ、ささくれ立った指で耳にさわられたような感じが不快に思えるのだろう。
【「哀悼の誠」をめぐる関連記事】(2016年12月29日の記事)
こちら側だけの「和解」
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/397



