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山田隆昭「春・幻」[2025年04月18日(Fri)]

DSCN3223.JPG
カタバミ。花が紫のムラサキカタバミがなじみだったが、黄色いのも多いのだった。
どちらもクローバーに似た葉の緑を背景に鮮やかだ。

DSCN3227.JPG

*****


春・幻   山田隆昭


街角で立ち止まる
電信柱がくねくねと招いても
犬ではないから誘惑されない
曲がるとそこに
巨人が坐っていそうだ
塀にもたれて坐っているにちがいない
投げ出した足が道いっぱいにひろがっていて

ポケットに忍ばせた薬に頼ろうか
レンズ状にふくらんだ空気を
ハンマーで叩き割ろうか
だが 今日は薄い文庫本しか持っていない
表紙に赤く太い文字で
「薬物中毒から立ち直る方法」
背表紙では細い骸骨が正装している
骨だって痩せることがあるのだ

振り向けばネズミほどの自動車が
群れて押し寄せてくる
ひとたび踏んでしまったら
転んで立ち上がれなくなる
道の脇の小さな公園に逃げこむ
児童公園であるのに遊具がひとつもない
砂場のかわりに星形の深い池がある
柵はもちろん ない
水には多くの眼球が漂っている
その数は奇数でなくてはならない
ひとができあがった頃から決まっていることだ
こころの眼はひとつで
水は幻を見ないから



詩集『伝令』(砂子屋書房、2019年)より


◆「春」と詩題にあるのに、真夏のような暑熱の中をさまよい歩いているようだ。
「レンズ状にふくらんだ空気」がまつわり付く。

第三連、自動車が「ネズミほど」に見えるのは、空想した巨人の眼そのものに自分がなりつつあるからだろう。
それはただ一つの「こころの眼」として遷移と生成の過程にある。
それがために、池に漂う多くの眼球――幻を見るのはそれらの眼球の働きなのだが――は「奇数でなくてはならない」。

結び、「水は幻を見ない」とは、水それ自体は、ものの姿を映すだけだ、という意味だろう。








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