
気まぐれと見せしめの殺人[2025年04月16日(Wed)]
◆昨秋のNHKスペシャル「If I must die ガザ 絶望から生まれた詩」で取り上げられたガザの詩人リフアト・アルアライール(1979ー2023.12.6)が生前編んだ『ガザの光 炎の中から届く声』の日本語版がこの1月に刊行された(斎藤ラミスまや=訳 早尾貴紀=解説。明石書店。原書刊行は2022年)。
◆アルアライール自身が書いた「ガザは問う――いつになったら過ぎ去るのか」から、彼が少年時代に体験したことを引いておく。
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人生の早い段階で、イスラエルの占領体制についてひとつ学んだことがある。それは私たちが石を投げていようが投げていまいが、とにかく兵士を見たら走って逃げること。なぜなら彼らは、たいてい気まぐれに標的を選ぶから。私たちが平和的に生活して普通に過ごしていても、兵士に捕まったら、殴られたり、ひどいときは逮捕されたりする。これが、イスラエルが自由の戦士たちよりもずっと多くの民間人を殺害している理由だ。
私は捕まったことは一度もないが、ゴムで覆われた鉄の弾丸で撃たれたことは三回ある。殴られたことも一度だけある。それは兵士たちが我が家に踏み込んできたときのことだった。彼らは私や私の兄弟、いとこたちを何十回もひっぱたいた。彼らの言い分は、私たちの心拍を確かめたところ鼓動が速かったから、きっとそれまで走っていて、おそらく石を投げていたに違いないというものだった。当時私たちは八歳から一一歳くらいの子どもだったから、いつだって鼓動は速かった。
一二歳になって、誇りを持って石を投げるようになっていた私が最も恐れていたのは、父に怒られることだった。労働者としてイスラエルで働いていた父は、私が石を投げているのを見つけたらきっと叱っただろう。父は冷酷だったわけでも、暴力的だったわけでもない。ただ、もしイスラエル軍が私を捕らえたら、彼は労働許可証を失うことになるのだ。私は、イスラエルが一六〇〇人以上のパレスチナ人を殺害し、数千人を負傷させた第一次インティファーダ(一九八七〜九三年)を生き延びた。幸運なことに私は、イスラエルの弾丸にも撃たれず、ラビン首相の「骨を折れ」政策*の犠牲にもならなかった。
しかし、当時一三歳だった私の友人レワー・バクルーンはそうはいかなかった。彼はイスラエル人入植者に追いかけられ、同級生たちの目の前で至近距離で射殺された。そのイスラエル人入植者は、石を投げたからレワーを罰したかったのではない。なぜならレワーは、石を投げていなかったから。その入植者は、子どもを殺すことで、石を投げている子たちへの見せしめにしたかったのだ。それは下校途中の、恐怖に怯えるたくさんの小さな子どもたちの目の前で起きたことだった。レワーの家から、ほんの数メートル離れた場所で。彼の母親の悲鳴は、今でも私の耳にこだましている。
【原註】
*第一次インティファーダのとき、イスラエルのイツハク・ラビン国防大臣(当時)は抵抗運動に参加するパレスチナ人について「石を投げる者の骨を折れ」と指示を出して国際的な非難を浴びた。
◆「気まぐれに」標的を選び、見せしめに少年を射殺する――酸鼻の極みだ。それが今も連日続いている。世界はトランプ詣でなどしている場合ではない。
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