石原吉郎「木のあいさつ」[2024年12月11日(Wed)]
木のあいさつ 石原吉郎
ある日 木があいさつした
といっても
おじぎしたのでは
ありません
ある日 木が立っていた
というのが
木のあいさつです
そして 木がついに
いっぽんの木であるとき
木はあいさつ
そのものです
ですから 木が
とっくに死んで
枯れてしまっても
木は
あいさつしている
ことになるのです
西原大輔編著『一冊で読む 日本の現代詩200』(笠間書院、2024年)より
◆「ついにいっぽんの木である」とは、ポンとボールを投げてよこした感じがする表現だ。
くだくだしい説明はぬきで、〈確かに渡したよ〉と無言で語りかけ、そのまま立ち去ったみたいですらある。いや、実際は、その「木」は立ち去らないのだが、委ねられたこちらの方がズズーっと、後退したように思える、「木」を見上げたまま。
渡されたボールをどう扱うかはこちらに委ねられている――他の誰かに渡すにしろ、途方に暮れて立ちつくしたままでいるにしろ、ボールを持っているのは君だからね、という感じだ。
「あいさつ」とは、そういう意味だろう。
その木が枯れてしまったとき、私は泣くだろう。
私にとって、木は「ついにいっぽんの木で」、代わりのものなどどこにもないことを思い知るはずだからだ。