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ロングフェロー「矢と歌」[2024年11月12日(Tue)]

鹿島茂[編]『あの頃、あの詩を』(文春新書、2007年)は、いわゆる団塊の世代が、中学生のころに教科書で読んだ詩を集めたアンソロジーである。

鹿島自身は1949年生まれで、そのあたりが団塊の世代の終わり、と目されているが、その4つ下になる当方などは、歌や遊び、漫画のヒーローなど、都会より数年遅くまで流行が続いている感覚があったから、53年生まれあたりまでを団塊世代とみなしたい気がしてきた。
このアンソロジーも、そういう意味で、なじみの詩が多いだろうと踏んでいたが、いざ開いてみると、意外に初めて出会う詩が少なくない。

たとえば、次のような詩……



矢と歌    H.W.ロングフェロー
              安藤一郎



私は一本の矢を空に射た、
それは地に落ちたが、どこか分からなかった。
矢はあまりに速く飛んで行ったので、
その行方を眼で追うことが出来なかったから。

私は一つの歌を空にそっと洩らした、
それは地に落ちたが、どこか分からなかった。
歌の行方を追うことが出来るほど、
鋭く強い眼を誰が持っているだろう?

ずっと後になってから、檞
(かし)の木に
私はあの矢を見出した、まだ折れもせずに。

またあの歌は、始めから終わりまで、
一人の友の胸の裡に再び見出した。


◆「矢」と「歌」が類比されている。矢は、ハッキリとした意志の発現として、的を目がけて放たれたのに対して、歌は、誰に向けてということではなしに、自分でも思い設けぬかたちで感情の吐露として我が口から洩れ出でたもの。

一方は肉体の内に矯めた力を刹那に解放することであり、他方は裡からあふれ来たものの抑えようのない流露である。
そのように対比させながら、ともに時間の流れの上にあることを意識している。「矢」は真っ直ぐ瞬く間に進む時間であり、「歌」はうねりたゆたい、時に止まってしまったかとさえ感じさせる時間とともにある。

◆その歌の届いたところは、友の胸の裡。私の歌の「始めから終りまで」、そっくりそこに「見出した」とは、切れ切れの断章ではなく、またことさらの増幅や減殺もなく、そのままに伝わり、そこにとどまった、ということだろう。

もう一つ、この詩は、「歌」が、文字で書かれるよりも先にまず、同じ空気を呼吸している者の前で口ずさまれ、空気を震わせて届けられるものだ、ということを良く分からせてくれる。


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