小田桐孫一「螢雪の辞」(続き)[2024年11月07日(Thu)]
◆小田桐孫一「螢雪の辞 その二」より、前回に続く段落を――。
それゆえに私は、この別かれの瞬間において、新しく巣立ち行くわが教え子たちに対して、この「最後の授業」*において、諸君に心から「一隅を照らさんとする」決意と勇気を期待したいのである。その時代に欠けていて、それゆえに人の心が曇るものあらば、それを新しくクリエートするエネルギーをもって生み出すことこそ次代を担う者の使命であり、第一義の道だと考えるからである。諸君がそれぞれの「持って生まれたものを深く探って強く引き出す人になる」**プロセスにおいて、自分の痛さと人の痛さを結びつけ、自分のいのちと人のいのちを結びつけ、自分の幸福と人の幸福を結びつけようとする人類相互愛憐の心を惜しみなく発揮してほしい、と私はひたすらに願う、みんなが幸福になる日のために、そしてあわれなチップス先生の供養のために。
小田桐孫一「螢雪の辞 その二」(『鶏肋抄』p.273〜274)より
*「最後の授業」…フランスの作家、ドーデーの短編集『月曜物語』の冒頭の作品。アルザスの少年フランツとアメル先生の「最後の授業」。小田桐先生は卒業式直前の2月にこの話をしている。その折に、「人間疎外」について話してもいた。当節は余り流行らなくなった哲学用語であるようだが、我々の高校時代には「倫理社会」という科目があり、そこにおいて「実存主義」とともに魔法のように惹きつけることば、それが「人間疎外」だった。ここには未だ他者へのまなざしがあった。この言葉に一瞥もくれなくなったことと、個という内側に埋没して行く風潮とは期を同じくしていたように思う。
なお、「最後の授業」はかつて国語や英語の教科書によく載っていた物語だが、母国語喪失を通して祖国愛を描いたという伝統的な解釈が、田中克彦の問題点指摘で大きく見直されることとなった。田中氏の説を研修で直接聞く機会にも恵まれたのだが、ここでは取り上げる余裕がない。
**「持って生まれたものを深く探って強く引き出す人になる」…高村光太郎の「少年に与う」という詩の一節。小田桐孫一先生は、この言葉を折に触れて口にし、文章としても遺した。「人間として」生きるしるべに、と心にはたらくこの言葉は、いま母校の「目指す人間像」として掲げられている。
◆「チップス先生」の物語を軸に、折々の講話で触れた章句を添え加えることで、我々に高校三年間を思い起こさせる話の進め方になっている。ベートーヴェンの「第九」の構造(作曲者自身の過去の作品の引用を連ねながら、第四楽章、バスによる「おお友よ、このような音ではない!もっと心地よい、もっと喜びに満ちあふれた歌を歌おうではないか」の詠唱、そして歓喜の歌の、滔滔たる合唱になってゆく、あの流れに通うものを感じる。
「自分」と「人」=自己と「他者」を結びつけようと呼びかけるのまた同じ心から湧き出ているのだろう。