小田桐孫一と師・和辻哲郎[2024年11月03日(Sun)]
◆小田桐孫一先生の訃報は、田舎からの手紙に同封された東奥日報新聞の切り抜きで知った(1982/7/18と亡くなった日付を鉛筆で書き留めてあるから、記事は7月19日のものであろう)。
その一ト月ほどのち、盆で帰省した折に、墓参した。
弘前市撫牛子(ないじょうし)の菩提寺。昨日の「疾風怒濤」にある、1938年に戦病死した弟・小田桐良治氏を弔う墓碑銘もその折に読んだ。
墓は孫一先生が建てたのだろうと思い込んでいたのだが、改めて随想集『草沢の心』を読むと、「父が先祖代代の墓の傍らに一段高く新しく墓石を建ててやった。」と書いてある。
貧しい農家として十人もの子どもたちを育て、教育も受けさせた父や姉たちの苦労(孫一先生の母は氏が七つの時に四十六歳で亡くなっている)が並大抵のものでなかったことは、随想集『草沢の心』冒頭の、〈風花集〉と題した諸篇につぶさに記されている。
この墓にこめられた父や姉たちの思いを想像しないわけにはいかない。
闘病中だった良治氏を除隊させ治療の田畑を売り払ってその治療費を捻出しようと考えた兄(孫一先生)と父の必死の願いも、軍の容れるところではなく、あきらめるほかなかったという。
支那事変(日中戦争)に村の召集第一号で出征し、戦死第一号として無言の帰郷となった弟――父や姉が懸命に土と格闘して子どもらを学校に上げて来た、その結果がこれなのか――家族のやり場のない無念を思う。
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◆小田桐孫一宛て和辻書簡には、戦病死した卒業生のこと、出征した卒業生たちの名が記され、彼らの安否を気遣っている。
戦後、足かけ五年におよぶシベリア抑留から復員し、教壇に復帰した孫一先生は、平和な社会へと巣立つ卒業生を見送るたびに、この時の恩師・和辻の胸中を反芻することがあったに違いない。
◆1972年3月の卒業式、学び舎を巣立つ我々へのはなむけで孫一先生が取り上げたのは、ジェームズ・ヒルトンの名作「チップス先生さようなら」であった。
第一次世界大戦が勃発し、勤務するブルックフィールド校に教え子たちの戦死の報が届く。
――以下は「チップス先生さようなら」から孫一先生が引用したくだりである――
「日曜日ごとに、礼拝堂で、例の悲痛な戦死者名簿を読み上げるのは、今の彼の仕事となった。そして、声涙ともに下る彼をみるのは悲しかった。生徒たちは、あれも無理のないことだ、年寄りになって涙もろくなったのだろう、と囁きあった。もしもこれが他の者だったら軽蔑されただろう。しかしチップスだから優しく許されたのだ。……チップスは今やブルックフィールドそのものになったのである。」
チップス先生に永遠の教師像を見た孫一先生の胸中には、恩師・和辻の姿が重なっていたことだろう。
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和辻哲郎墓所(北鎌倉の東慶寺)。墓苑を半分ほど上って行った左手にある。