「大地讃頌」の詩人・大木惇夫[2016年05月22日(Sun)]
Racy Ladyという名の1999年英国生まれのバラ
(5/15横浜・伊勢佐木長者町駅前広場)
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◆今朝のテレビ朝日「題名のない音楽会」は昭和vs平成の合唱名曲というテーマだった。
気鋭の指揮者・山田和樹と東京混成合唱団の演奏で、初めて聴く曲も多かった。
平成の世の第一位は卒業ソングの定番曲となった「旅立ちの日に」。
埼玉県秩父市立影森中学校を歌声の響く学舎にと願って校長・小嶋登が作詞し、音楽教諭の坂本浩美が曲を付けて1991年の卒業式で歌った曲である。
◆番組の最後に昭和の名合唱曲として歌われたのがあの「大地讃頌」だ。
たちまち、勤務校での合唱コンクールを思い出した。
◆2つ目と3つ目の勤務校はどちらもクラス対抗の合唱コンクールを恒例としていた。
それらの合唱コンにクラス担任として臨むこと11回に及んだから胃が痛む年もあった。
とりわけ人間関係で手探り状態の新1年生が、うまくまとまって行けない時は気が揉めた。
それだけに、本番のステージでともかくも歌いきったという紅潮した表情で袖に引き揚げてくる生徒たちを迎える嬉しさは格別だった。
◆佐藤眞(しん)が曲を付けた「大地讃頌」は7曲からなる混声合唱用のカンタータ『土の歌』の掉尾を飾る名曲で、今は中学校の音楽教科書にも載っている。
高校の合唱コンクールでこれを選ぶクラスも多かったのは、歌ったことがある曲だから、という以上に、高校の新しい仲間と歌う歓びを分かち合いたいと思うからだろう。
◆詩は大木惇夫(おおきあつお 1895〜1977)だ。
私事ながら77年に神奈川県立茅ヶ崎高校に着任した。
受け取った学校要覧か生徒手帳だかに校歌が大木惇夫作とあって、そうなんだ、と思った。
この年の7月19日に大木惇夫は82年の生涯を閉じたのだったが、残念ながらその訃報に接した記憶がない。
夏休み直前だから夏期講習か合宿の準備に忙殺されていたのだろうか。
読むヒマがないので新聞を取るのも止めていた記憶がある。
同校の「創立50周年記念誌」(1998年刊)に譜面とともに載っているので下に紹介する。
作曲は鯨井孝氏(当時の音楽科講師だった方)。
戦後間もない1948年に茅ヶ崎市立茅ヶ崎高校としてスタートした同校は3年後に県立に移管、それを機に校歌の制定を計画して歌詞を大木惇夫に依頼したのだった。
格調高く今もそらんじている。
一番を下に写しておく。
相模灘 潮風かおる
茅ヶ崎よしや わが学び舎
あゝ 青空の智恵みてり
花さく春に はぐくみて
いよよはげまん いそしまん
思ひは深く つつましく
真理のいづみ 汲まんかな
◆歓送迎会でも必ず歌ったのは校歌として良く出来ているからだろう。
歌詞前半に開放的な「a」の母音を多用し、調子が転じる「思ひは深く〜」の行で息をすぼめる「u」音を連ねているのが効果的だ。
2・3番も同様に「a」音と「u」音の対照的な使い分けが施されている。
旋律に乗せて歌われることを明確に意識して言葉を統御しており、耳の良い詩人であることがわかる。
師と仰いだ北原白秋から受け継いだものであろうか。
◆詩人・大木惇夫の名を知る人は現在少ないかも知れない。
1970年に中央公論社から出た全30巻(+別巻1。のちに中公文庫として再刊された)からなる「日本の詩歌」では第26巻の「近代詩集」の巻にその最初期の詩集から「風・光・木の葉」「ふるさと」「けふの冬」など5編を収めるが、いずれも戦前の作品である。
◆鎌倉市歌も大木惇夫作だ(作曲は矢代秋雄氏)。
その後いくつかの校歌の作詞者として名を目にしたものの、肝心の詩作品には接する機会がなかったところ、生誕120年にあたる昨年、その評伝が出た。
『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』。
著者は大木惇夫の愛娘で中央公論の文芸誌「海」の名編集長であった宮田毬栄(まりえ)である。
この本によってようやく、詩人大木惇夫の生涯と詩作品をつぶさに知ることができた。
宮田毬栄『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』中央公論新社、2015年
◆父を「忘れられた詩人」と形容したことには編集者としての批評のまなざしがある。
戦前、「戦友別盃(べっぱい)の歌」や東海林太郎が歌った「国境の町」など、時局にそぐう詩を多数発表した大木惇夫は、戦後、その責めを負って詩人としての活躍の場を失った。
苦境の中で校歌や社歌の依頼に応じたことも記されている。
著者は、大木惇夫の詩を愛する井上ひさしや北杜夫から伝記を是非書くよう慫慂を受けながら、本にまとめるには困難を伴ったようだ。娘として父・大木惇夫の家庭における負の面をも描かねばならなかったからである。
だが、ようやく成ったこの一冊によって、我々は大木惇夫の詩作品の数々を筆者の批評眼と愛情のこもった解説とともに読むことができる。
もの心ついてから戦後の70年を丸々生きてきた一人の女性の戦後史という側面も持つ貴重な一冊だ。著者が職場(中央公論社)の上司に砂川闘争の支援に行く意を伝えたところ「おう、行って来い」と督励を受けるくだりなどは、60年安保当時の雰囲気を良く伝えるエピソードだ。
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◆『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』のあとがきで著者は「大地讃頌」に触れ、次のように記す。
父が作詞したたくさんの合唱曲や歌曲のうち、今も変わらずに歌いつがれているのが混声合唱のためのカンタータ『土の歌』だろう。佐藤眞氏よる作曲は、思わず涙ぐんでしまうほどの傑作である。第一楽章から第七楽章までを含む名曲のうち、小学校や中学校の卒業式などの行事で歌われるのが、第七楽章「大地讃頌」である。私の子どもたちも祖父の詩とは知らずに、家でも歌っていた。
だれの詩かも知らずに歌いつがれること、詩人は内心それを願っていたのではなかろうか。
詩が詩として生き続けるのは、そういう形がのぞましい、と思っていたのではなかろうか。
美しく澄んだ、しかも力強い『土の歌』のCDを私も聴く日がある。
◆同じあとがきで著者は、父の伝記を書き終えてなお残る悔いを記しつつ、戦時中父が疎開していた福島県浪江や大堀村、そして神鳴の高瀬川河畔に建つ「高瀬川哀吟」の詩碑を見に訪れたいと書いている。
大堀村で敗戦の日を迎えた父は神経性の病気に苦しみつつも、自分が取りこまれ、後半生を狂わされることになる戦争について、「戦争の狂気よ、知性を蝕んだ熱病よ」(詩集『山の消息』)と書くのみで、その後は沈黙のまま長い年月を寂しく生きた。
戦争の悲惨、愚劣を身をもって経験した父は、いかなる戦争をも受け容れようとはしなかった。『土の歌』は父の苦悩と悔悟が育てた大いなる愛の歌である。
戦後七十年の昨今、戦争の影をうすら寒く感じる人は多いだろう。私の幼児期の記憶でも、戦争は前々から恐ろしい顔を見せるのではなく、のどかな変わらぬ日常に突如、巨大な姿を現わした。不安にみちたこの時代だからこそ、『土の歌』の愛の響きが静かに広く浸透するように祈りたい。
◆そういえば、先述した茅ヶ崎高校の校歌、3番まである詩の最後は次のように結ばれていたのだった。
憧れつよく 美はしく
平和の虹を 懸けんかな
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◆大木惇夫は広島市天満町の生まれである。
宮田毬栄『忘れられた詩人の伝記 父・大木惇夫の軌跡』には、戦後、広島で仏典の現代語訳に取り組んだことも記す。戦争で失った命への鎮魂の思いを形にしようとしたのだろう。
◆同書の刊行と生誕120年を機に昨年広島市中央図書館で資料展も開かれたといい、新聞でも紹介された。
★2015年6月13日中国新聞記事:
「戦争詩人」の過去 直視 広島出身の大木惇夫 地元で資料展 次女が伝記出版
⇒http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=45197
記事によれば平和記念公園の「祈りの像」には「み霊(たま)よ 地下に哭(な)くなかれ」と大木惇夫の詩が刻まれているという。
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◆編集者・宮田毬栄が作家たちを回想した一冊も併せて紹介しておく。
『追憶の作家たち』だ。
戦前から戦中の体験を小説に刻した作家たちに混じって一人異色なのは詩人西條八十だろう。
宮田は中央公論社の編集者として、父・大木惇夫の詩友でもあった八十(1892〜1970。八十の方が3歳年長)の『アルチュール・ランボー研究』を世に出した。
八十は「東京音頭」や「青い山脈」「王将」などの作者でもある。それゆえか、早稲田で仏文を教えた八十が晩年の情熱を傾けたこのランボー研究も、大衆詩人の余技とみなされたという。
そう言えば学生時代、早稲田あたりの古本屋で何度も『アルチュール・ランボー研究』を目にしたものの、ついぞ手にとって開いたことがなかったことを思い出す。
西條八十畢生の著を世に送り出した編集者として再評価を願う気持ちが伝わってくる。
宮田毬栄『追憶の作家たち』文春新書、2004年