
三木卓「わが町」
[2024年02月10日(Sat)]
わが町 三木卓
ここは たあいのない町だ
ぼくにとっては 世界はそこからひらけているのだ
銀行には 不器用な九官鳥と退職警官の守衛がいて
夜ふけには ギターとハーモニカが
十九世紀オハイオの旋律をかなでている
恋人たちは 夜のものかげにひっそり
日射しのあかるい楽器店のまえには
若者たちが群れてジャズを聞いている
なぜ ぼくはここで暮すことにしたのだろう
ある日 妻とぼくは住みつき ここで
こどもを育てることになったのだった
すると町は いろんなものを見せてくれた
肉屋の犬は やっぱり獰猛なことも
廃屋で 子どもたちが夢中で遊びすごすことも
真夜中に陽気にふざける酔っぱらいがいることも、
金もうけの不手な商人がぐちっぽいことも
背中のわるい新聞売りのおじさんが
もうひとりのおばさん売り子と夫婦らしいことも
だまって 教えてくれたのだ
だが それらは 遠い日々どこかで
みんなが記憶したものとちがいはない
ここは どんづまりの淀みの中
たえまない車の流れと うす青い排気ガスの世界
大都市の幹線道路につらぬかれた つまらぬ町だ
やがて ぼくは知った
ここでは 死んでいったものは
たちまち忘れ去られていくことを
路上で悲鳴があがり チョークで人のかたちが書かれ
雨がやさしく洗い流せば 次の日から
町は そのひとなしで 同じように生きていくことを
倒産した店の窓ガラスはじきに割れるが
ある日覗くと 血色のよい別の男がすわり
太い指にはめた 金のはんこをみがいていることを
だからここには
歴史なんてないのだ
夜ふけ雨あがりの舗道をあるき
ぼくは 銀行の前の電光にひかる時計塔を見上げた
秒針が時間をきざむのをじっとながめていると
ぼくにも すこしわかってくるのだ
この町のやさしい 営みを支える骨組みは
ひとびとの恐怖が組み合わされてできていることが
世界全部と同じであることが…
ああ まだ少年のころ
僕は 帽子を買いかえるように
世界をかえることができると思っていた
それが希望につながるものだった
しかし いまは
そうではないから 生きる望みをもつことができる
ひとびとの流れのなかで しずかに
ひろがってくるひびきに 耳をかたむけていると
ぼくの冷えたこころが
銃撃をあびたように 身動きするのがわかる
小海永二『現代の名詩』(大和書房、1985年)より
◆この詩において最も印象に残るのは終わり近くの、次の三行だろう。
ああ まだ少年のころ
ぼくは 帽子を買いかえるように
世界をかえることができると思っていた
では、今はそう思っていないのか?
詩の大半を占める「わが町」の人物や出来事はいかにも散文的で、大人の生活を始めた「ぼく」を取り巻くものたちが点景として描かれる。だが、ここでは殺人さえ、つまらぬ出来ごとのように処理されて、たちまち人々の記憶から消え去ってゆくものらしい、という辺りから、実は映画のシーンをつぎはぎしたような世界であることが分かってくる――というよりも、見ているのは本当のことじゃない、映画なんだ、と思うことでかろうじて成り立っている世界に「ぼく」は居る、ということが言いたいのだ。
実は、人々を恐怖が支配しており、それは世界全部と同じだ、という。
その真実に向き合いたくないために、見ているのは映画なんだと思うようにしている……
だとすると、この詩は、余りに非道なことが起きている時に、私たちが己を守ろうとして感覚の鈍磨に陥ったり、つくりものの世界に逃げ込もうとすることを、静かに告発しているのではないか?
◆少年時代には世界を簡単にかえられると思っていた。今はそんなにたやすいことじゃないことが分かっている。銃撃に身をさらす危険を冒さなければ、世界は変わらない、その恐怖に堪え、打ち克つことができるかどうか――
詩の終わりの方で、「希望」と「生きる望みをもつこと」とは、区別して用いられているようだ。
「希望」は漠然としているが、「生きる望みをもつこと」は具体的だ。いったん恐怖に直面して「冷えたこころ」を持ってしまっただけに、「生きる望みを持つこと」は激しいまでに切実な希求だ。