
木の詩ふたつ[2023年12月26日(Tue)]
◆川崎洋・編『こどもの詩 1990~1994』(花神社、1995年)から、木の詩を二篇――
*( )内は新聞掲載時の所属校と学年。
木 中村武夫
人間はどんどん木を切っていく
はいきガスや
えんとつのけむり
どんどん木たちがかれていく
そのうち きっと宇宙から
切られた木たちのれいが
しゃべる木になってきて
木を全部もってっちゃうかも
(横浜市戸塚区 倉田小四年)
◆「木」の「霊」と書いて「こだま」と読む。してみると、山や谷で聞こえて来るあの声は、単に人声が反響して聞こえるというのではなしに、樹木の霊が声にまつわるようにして聞こえて来るのだったか。
声を発した当人にとっては、失われていた霊性を取り戻し、足元を照顧したり畏怖の念を持する生き方に復帰する契機を与えられるということだろう。
人工的な壁や建造物がもたらす反響はそれらとは無縁だ。
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雨ふり 山本雄太
となりのあきちの木 きられた
ようちえんの時 のぼった木
お金をかくした木
穴をあけた木
根っこのとこだけのこってる
台風のときもたおれんかったのに
新しい家がたつんやて
ブルドーザーのミラーが
雨にぬれて光っている
(神戸市 北六甲台小六年)
◆この詩を読んで改めて思い出した木がある(二、三年前に書いた気がする)。
小学校の玄関前にあった大きなプラタナスの木だ。
朝の始業前や昼休み、よく登った。
何をするでもない。ただただ眺めていた。グランドで遊んでいる上級生や、登校して昇降口を入って行く子たち、その頭上で時々向きを変える錆びた風向計などだ。
時間だけはたっぷりあった。
◆長じて帰省した折に小学校の前を通った。プラタナスの姿はもうなかった。
面影を探してもむだだった。
たっぷりあったはずの時間も、木といっしょにどこかへ消えてしまったように思えた。
◆寿命が来たわけでもないのに風景から消えてゆく木たちは、それに触れたものたちの記憶や時間を根こそぎ道連れにして消えてしまうのだ。