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徐京植氏逝去 〈恥〉という原則的な感情[2023年12月22日(Fri)]

◆作家、徐京植(ソ・キョンシク)氏が亡くなった。享年七二。
良き読者であったとは言えないが、学生時代、一年あまりでキャンパスで見かけることがなくなってしまった一人の同級生の面影や、彼が身を投じていったと人づてに聞いた運動のことを徐京植氏の生き方や求め続けていたものに重ねているところがあった。

徐氏の筆による辺見庸『1★9★3★7』の解説「ひとつの応答――魯迅を補助線として」を読み返すと、まさに今の私たちのために書かれたと思わずにいられない。
一節を紹介し、ご冥福を祈ります。

*******


この作品は戦争、虐殺、差別などについての事実認識を読者に求めているのではない。「事実」というなら、それは改めて言い立てるまでもなく明らかだからだ。人々は「南京大虐殺」や「慰安婦」という事実の存在を知らないのだろうか。少なくともある世代より上の人々にとっては、決してそうではあるまい。問題なのは「事実の有無」ではなく、明々白々な事実の前に立たされながら、それに背を向け、「スルー」することのできる心性である。
この「解説」を書いている私自身が振り返って思うことだが、(政府や軍部に)「自分たちはダマされていた」という戦後広く流通した常套句に、私も長い間ダマされていた。日本人たちの多くはダマされていたのであり、もう二度とダマされまいと肝に銘じている、そう思い込んでいた時期があった。だが、そう信じていた若い日の私はナイーヴすぎた。
そのことを改めてはっきりと自覚したのは、安倍晋三首相が二〇一三年にブエノスアイレスで行った東京オリンピック招致演説に対する人々の反応を見た時である。首相はこの時、全世界に向けて、福島原発事故は完全に「アンダーコントロール」であると言明した。あまりにも厚顔無恥な虚言である。しかし、大多数の人々がそれを歓迎し喝采した。ダマされたのではない。虚言を虚言と知りながら歓迎したのである。日清、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争当時から、おそらく人々はこうであったのだろう。ダマされたのではなく、それをみずから望んだのだ。自己の利害や保身のために、多かれ少なかれ国家や軍部と共犯関係(辺見庸のいう「黙契」)を結んだのである。
すすんでダマされることを歓迎する人々、、あるいはダマされたふりをして保身をはかることが習性となった人々に、「事実」を示し、論証してみせたところで無益である。相手が「スルー」し続ける以上、ただ合理的に理非曲直を説き、真理は我にありと自足して終わるわけにはいかない。相手の心性の闇に分け入って覚醒させ、倫理的更生を促すこと、それがかなわないとしても、立ち尽くさせ、恥じ入らせることが必要なのだ。
ユダヤ人大量虐殺の事実が知られ初めていた第二次世界大戦の末期、ハンナ・アーレントは亡命地アメリカで、自分がドイツ人であることを恥じるというドイツ人たちに出遭った。その度にアーレンとは、「私は人間であることを恥じる」と答えたくなったという。
〈この原則的な恥ずかしさは、(中略)感情の上での国際連帯に関して残された唯一のものである〉(「組織化された罪」『パーリアとしてのユダヤ人』)
この言明はもちろん「ドイツ国民」の責任を軽減するためのものではない。「恥」という原則的な感情を基準とすることで、ドイツ人とユダヤ人、加害者と被害者が「連帯」する可能性について述べたものだ。
他国に侵攻し非戦闘員を含む他者を大量虐殺したという事実を前にして、恥じることができるか。国家政策として他民族の女性たちに対する大規模で計画的な性奴隷制を行ったという事実を前にして、恥じることができるか。前者について犠牲者数を云々して責任を否定しようとする人々、後者について「国家に法的責任はない、責任は業者にある」などと言い募る人々は、恥ずかしくないのか。自分の父祖、上司や同僚、隣人や友人が、そうした行為に積極的にであれ加担していた、あるいは拱手傍観していたと知ったとき、恥辱感を覚えないのであろうか?
おそらく恥辱感など覚えないのであろう。この人々はこうした「原則的な感情」をとうに棄て去ったのだ。そういう感情を用意周到に避け、消去することがこの人々の「生の技法」にすらなった。「感情の上での国際連帯に関して残された唯一のもの」は失われたのである。あるいは、そんなものは最初から持ち合わせなかったのだ。恥を知らない人々に「事実」を説いたところで彼らはいまさら恥じ入ったりしない。「人間であることを恥じる」と言ってみても、「人間」というものへの共通理解が破壊されたままなのだ。
しかし、「国際連帯」の可能性を放棄しないためには、なんとかして、この「原則的な感情」を蘇らせなければならない。もともと存在しなかったのなら、いまからでも生み出さなければならないのである。それは「文学」が担うべき仕事だろう。


辺見庸『完全版1★9★3★7(下)』(角川文庫、2016年)より



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