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会田綱雄「伝説」2:柴田翔の読み[2023年10月30日(Mon)]

柴田翔が若い世代に向けて書いた『詩に誘われて』、その第三章《性と死》が、会田綱雄「伝説」を取り上げている。その中で「贈与」という言葉が用いられていて、大島邦行の詩「雀の泪」を理解する上でも手がかりになるのではないかと思ったのだった。

全文を紹介する。

***

人間の生の原形が静かなことばで造型され、定着されています。
三行目で折り目正しく、「わたくしたち」と名乗るのは誰か。それは最終の三行、湖に浮かぶ船の上で、「やさしく/くるしく/むつびあう」ふたりです(「むつびあう」は「睦び合う」で、「性交する」の)意)。
彼らは湖岸で蟹を捕り、それを町へ運んで、米塩の資としている。

第二連、「蟹を食うひともあるのだ」という、ちょっと不思議なことばが、一行だけ独立した連となって、際立っています。

彼らは蟹を捕り、売りますが、食べはしない。ただ蟹の代金で買った米と塩を持って、湖のほとりの小屋に帰り、灯を灯さぬ小屋の暗闇の中で子どもたちに熱い粥を作り、食べさせながら、くりかえし父と母の思い出を語り、伝える。
父と母も彼らと同じように、蟹を捕り、山を越えて米塩を持ち帰り、子どもたちのために熱い粥を炊いて、その生涯を送ったのだと――。

次の「わたくしたちはやがてまた」の一行で始まる第六連――それが、この詩の中心です。
それは優れた詩の優れたことばがいつもそうであるように、ひそかな衝撃を読む人に伝えます。
人間の生命は個々人の一生で完了するものではなく、世代から世代へと果てしなく受け継がれて行く。だがその成就は、ただ子どもたちに熱い粥を食べさせるだけでは果たされない。「わたくしたち」は老いて身体も軽くなったある日、「わたくしたちのちちはは」と同じように、「痩せほそったちいさなからだ」を湖に捨てに行く。蟹が「わたくしたちのちちははのぬけがらを/あとかたもなく食いつくしたように」 、「わたくしたち」のそれをも食いつくすように、と。

先行する世代が次世代のために、生き物の食の連鎖の中へ自分自身を投げ入れる。それで初めて、生命は受け渡されるのです。

再び一行だけで自立する第七連で、詩人は静かに宣言します。
「それはわたくしたちのねがいである」
なぜならそれが――自分の身体を蟹の餌とすることが、世代から世代への生命の継承を成就させるのだから。
同じように一行だけの第二連の意味、彼らが蟹を食べない理由が、親たちが自ら望んで湖に捨てた身体。彼らはそれに養われた蟹を捕り、子どもたちのための米塩の資とする。
それは親たちの心からの贈与を、慎みつつ受けるということであり、その感謝と敬意の思いが、自分たちで直接に蟹を食べることを禁忌にしているのです。

こうして自分たちの生の根源的な形を確認した「わたくしたち」は、最終連、子どもたちの寝静まったあと、湖に船を浮かべ、夜の湖水を渡る風の冷たさに震えながら、むつびあいます。生の本質を自覚しつつ交わす、原始の性の風景です。
彼らは、「やさしく/くるしく/むつびあう」。そのとき彼らが自分の名、相手の名に執着することはないでしょう。近代が信じてきた意味での恋は、もうここにはない。それぞれが男であり女であることで、充分だからです。


柴田翔『詩に誘われて』p.105〜(ちくまプリマー新書、2007年)より。
ただし、画面上の読みやすさを考慮して、数カ所で改行し、行を空けた。
また、特に注意を払いたい部分を太字&赤文字にしたのも引用者。

「生き物の食の連鎖の中へ自分自身を投げ入れる。」そのようにして、生命を受け渡すこと、それを〈贈与〉と表現している。



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