
矢澤準二「十二才」[2023年05月28日(Sun)]
十二才 矢澤準二
十二才の時
今一番うれしいのは
自分が十二才ということだ
と思った
昨日それを空手の稽古の合間に
十二才の少女に話した
これから楽しいことがいっぱいあるよ
と つけくわえて
少女は少し微笑んで
目をぱちぱちした
その言葉は
少女のなかに
残るだろうか
(いつまで?)
わたしが十二才の時
六十七才のオジサンが
十二才の時に
今十二才ということが一番うれしかったって
話してくれたのよ
(きみ今、いくつ?)
十二才の時のことを
ちゃんと憶えているのに
今は三秒前のことも
よく忘れる
シャンプーしていて
これは一洗目か?
二洗目か?
とか
『チョロス』(思潮社、2020年)より
◆誰もが日頃やっているありふれた行為でさえ、人によっては随分違う流儀があるものだ、と思い知らされることがある。
この詩の終わり、フト手を止めた「髪を洗う」こともその一つ。
「一洗目」――”ひとあらいめ”と読むのだろう――これに続いて「二洗目」というのが出てきてオヤ、と思った。
――(シャンプーで二回洗う習慣なんだ……)(「すすぎ」の回数ではないんだろう)
◆髪の洗い方など人の興味をひくような話題でもあるまいから、誰かに話すことはないと思うし、まして、キミは何回洗う?などと訊ねることも、まずない(家族にだって)。
◆ただ、ささいな習慣の違いが、たとえば十二才という時に、自分が生きているに関する感覚のありようの違いとしてにすでに在る、とするなら、その違い方が六十七年余も積み重なるうちには、ずいぶんな相貌の違いをもたらしているだろうな、とも思うのだ。
◆で、それがどうした、という話だが、人生のトバ口に立つ子に「これから楽しいことがいっぱいあるよ」と話してくれる大人が居るのと居ないのとでは、その先の景色が全く違ってくるのは確かだと思われる。
むろん、少女がこちらの年齢に達した頃、オジサンは間違いなくこの世をおさらばしている。
だが、オジサンの方にも功徳がある。「で、どうだった?」と空の上から確かめてやろう、と想像するだけで、六十七からの残りの人生がさらに楽しくなるのは間違いないからだ。