小笠原東陽墓・耕餘塾跡地を訪ねて[2023年03月26日(Sun)]
◆汲田(くみた)墓地にある小笠原東陽(1830-1887)の墓。明治中学校北側を北に入った所にある。
東陽の左には長男・小笠原鍾(あつむ。民権家として活躍)、更に左手には女婿で東陽の没後、2代目の塾長となった松岡利紀の墓がある。
◆耕餘塾に学び、民権家として活動した平野友輔の墓もここにある。医師、代議士として活躍した。
◆羽鳥村の名主三觜(みつはし)八郎右衛門が東陽を招いて「読書院(とくしょいん)」が設立されたのは1872(明治5)年の3月。
この年8月の学制発布により各地に公立小学校を作ることとなり、「読書院」は「耕餘学校」と改称され、神奈川では最初の公立小学校*となった。
*現在の藤沢市立明治小学校の前身。1928年に同校は現在地(藤沢バイパス北側)に移転。
現在ある羽鳥小は、1972年に学区改編で新たに開校したものである。
◆一方で東陽は中等教育を行う場として私塾での教育も続け、生徒も増えて来たため、1877(明治10)年、三觜八郎右衛門が提供した土地に地元有志の資金を得て塾舎を新築、「耕餘塾(こうよじゅく)」と命名した。「耕耘収穫の余力から耕餘」、すなわち「農作業をしたうえで、なお余った力で勉学を行う」。労働と勉学の両立を目指す学舎であった。
羽鳥小学校の東側、耕餘塾跡地に建つ小笠原東陽顕彰碑。
汲田墓地から現在の羽鳥小に沿って数分歩いたところ。
耕餘塾の跡地(藤沢市指定史跡)にハナズオウが咲いていた。
★明治郷土資料室発行の『耕餘塾と人間育成の教育 天民不羈』(2015年)、および藤沢市立明治小学校沿革を参照しました。
⇒https://www1.fujisawa-kng.ed.jp/emeij/index.cfm/1,0,9,346,html