
池下和彦「息子」[2023年01月22日(Sun)]
息子 池下和彦
心配ばかり掛ける息子の
嫁になるという娘に対し
父親が
その真意をたしかめる場面で
ぼくはないてしまった
母は
なぜないているのとたずねる
この映画を見てないているんだよ
とこたえる
そうなの
母は
すこしかんがえてから
からだに気をつけてね
と言い足す
山田洋次監督のこの映画では
ろうあの設定で登場するその娘が
どんな言葉よりも深く
父親の問いにうなずいていた
ぼくは
その娘のまねをしそこねて
母からなぐさめられている
池下和彦『母の詩集』(童話屋、2006年)より
◆認知症の母を詠った詩集。
その中に、映画「息子」(1991年)をめぐる一編があったので取り上げておく。
名画であるのは無論だが、この映画の撮影現場に遭遇したことがあって忘れがたいからだ。
◆ある夜、いつものスーパーに入って間もなく、いつもと違う雰囲気を感じた。通路を振り返って見たら、いつもより照明が明るいのだ。カゴを手にした買い物客も何人かいるものの、品物をカゴに入れる風がない。
落ち着かぬまま何品か入れたカゴを手にレジに向かってようやく分かった。
三國連太郎氏と山田洋次監督が雑談していたのだ。休憩中だったらしい。不思議な買い物客たちも出演者だったわけだ。
場所は善行団地の一角にあった生協ストアで、残念ながら、現在は無い。
◆映画では、岩手から上京した父親(三國連太郎)が心配の種である息子(永瀬正敏)のところに寄る。
夕方、スーパーに買い物に行った父親が店で東北訛りの男たちと遭遇して会話を交わす。そのシーンを撮影していたようだ。
この場面、青いCOOPブランドの牛乳などがしっかり映っているのもなつかしい。
◆詩の場面は、その後、息子のアパートで息子が付き合っている女性(和久井映見)に初めて会い、二人の結婚の意思を確かめるシーンである。
驚きながらも、本当だと知ってうれしさがこみあげる父親の表情、気がかりだった荷を肩からおろした気分で歌う姿も印象的だ。
雪深い岩手の家に帰った父親の、孤独だが安堵をゆっくりかみしめるラストも良い。
(回想と死を暗示するかのように射す光は、やはり映画館の中でこそ生きて来る、ということも改めて感じさせる。)
◆詩の結び、「ぼくは/その娘のまねをしそこねて……」という、どこかユーモラスな一節は、「ぼく」の方は映画の娘のように親を安心させるどころか、つい泣いて母親の心配を誘ってしまった、という意味だろうけれど、同時に、「素敵な伴侶を得て親を安心させることもできないで……」という気持ちもこめたのだろう。ままならぬことは、ままあることだけれど。