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〈後方の人びと〉[2023年01月15日(Sun)]


何と後方の人びとは軽快に痛慣して教義や同情の言葉をいじることか。


開高健「輝ける闇」(1968年刊)の中の言葉だが、2023年のいま吐き出された言葉と言ってもおかしくない。

ウクライナ戦争、あるいは統一教会問題をかすめ取って論じたり政治を動かそうとしたりする人々の多くは、いかに深刻な表情をして見せても、最前線に立たない限り、当事者であることを免れた安全地帯で言葉をもてあそんでいるというしかない。

ヴェトナム戦争下のサイゴンに身を投じている小説の「私」ですら、ついに当事者たり得ないまま、苦く黒い炎で身を焦がす〈眼〉でしかないのだ。

この一文の前後を含めて引いておく。

誰かの味方をするには誰かを殺す覚悟をしなければならない。何と後方の人びとは軽快に痛慣して教義や同情の言葉をいじることか。残忍の光景ばかりが私の眼に入る。それを残忍と感ずるのは私が当事者でないからだ。当事者なら死体が乗りこえられよう。私は殺しもせず、殺されもしない。レストランや酒場で爆死することはあるかもしれない。しかし、私は、やっぱり、革命者でもなく、反革命者でもなく、不革命者ですらないのだ。私は狭い狭い薄明の地帯に佇む視姦者だ。

開高健「輝ける闇」より。
『開高健全集』第6巻、p.92(新潮社、1992年)に拠った。



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