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開高健『夏の闇』より[2023年01月11日(Wed)]

開高健『夏の闇』の終わり近く、「私」はベトナム戦争の大きな節目を予感し、再び戦場にいる己の死の輪郭に焦点を合わせようとする。

たとえば次のような一節を、いま、ウクライナ戦争を目の当たりにする私たちは、どう読むだろうか?
共感か反発か、あるいはその双方、もしくは、それらのどれでもない、もっと別様の言葉――希望であれ絶望であれ――瞳孔を絞り、〈わたし及びわたしたち〉の死に照準を合わせた言葉を、「個として」吐きだせるだろうか?

***

これは日本人の戦争ではないのだ。単純でむきだしで巨大なその思いが胸にきてすわりこんだ。絶対自由主義者であるらしい私がこの期に及んで血縁や地縁によりそいたがるのは失笑するしかないが、事実であった。日本人の戦争であってほしかった。私をいたむ弔辞で述べられるかもしれないいくつかの観念が明滅し、そのいずれもがいくらかずつは真実であることが感じられたが、だといって全部をあわせても私を蔽うことにはなりそうではなかった。それらの壮語はことごとく広大で希薄すぎ、言葉でありすぎて、体をゆだねることもできず、跳躍板になりそうにもなかった。死はついそこにきているが、私がここにいない。私は虫と人のあいだを漂っている。私は決意していない。私は私にまだ追いついていない。決意もできず、追いつくこともできず、いつでもひきかえせるのだと思いつつ、おぼろなままで、でていく。中世の僧はテーブルに頭蓋骨をおいて日夜眺めて暮した。私は生温かい亜熱帯の土のなかで腐っていく自身の死体を、蒼白い蝋状からはじまって灰いろの粉末となるまでの過程を想像する。

開高健『夏の闇』222~223頁(新潮社、1972年刊の単行本)より





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