中井久夫 訳:リッツォス「朝」[2022年08月13日(Sat)]
◆先日亡くなった精神科医・中井久夫には、カヴァフィスなど、現代ギリシア詩の訳業がある。
『リッツォス詩選集』というのもあり、これは詩人の谷内修三(やち・しゅうそ)による「中井久夫の訳詩を読む」という解説が各詩に附いた、ぜいたくな一冊だ。
その中から、嵐の過ぎた早朝のように印象的な一篇――
朝 リッツォス
中井久夫・訳
彼女は鎧戸を開けた。シーツを窓枠に干した。陽の光を眺めた。
鳥が一羽 彼女の目を覗き込んだ。「私は独り」と彼女はささやいた。
「でもいのちがあるわ!」彼女は部屋に戻った。窓が鏡になった。
鏡の窓から飛び出したら自分をだきしめることになるでしょう。
中井久夫訳『リッツォス詩選集』(作品社、2014年)より
◆シーツが風に翻った瞬間、そこに現れたのは、さっき窓の外からこちらを覗き込んだ鳥に変身した「私」。
――読者は、手ぎわ鮮やかな手品の目撃者&証人となる。
窓のこちら側にいたはずの「私」が一瞬のうちに解き放たれ、それまでの「私」をガラスの向こうに見ている。室内から外光の中への瞬間移動は、窓が、過去と未来を同時に映す鏡となったおかげ。
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◆ヤニス・リッツォスYannis Ritsos(1909-90)…きわめて多産な詩人で、八十冊を超える詩集があるという。若き日に独裁政権による焚書に遭い、ドイツ軍に対する抵抗運動、さらにはギリシア左翼戦線に加わって二度に及ぶ流刑に遭うなど、波乱の時代に抗して生きた人だが、晩年はアテネ郊外に閉居しほとんどの来客を拒んだという(訳者解題による)。