
生き残ること――コルベ神父[2016年01月11日(Mon)]
コシチェルニャックが描いたコルベ神父

ミェチスワフ・コシチェルニャック「鉄条網の向こう側の子どもたち」
◆先週1月7日の朝日新聞夕刊に「アウシュビッツ生き延びた画家の絵、日本から母国へ」という記事が載った。
http://digital.asahi.com/articles/ASHDQ2D4KHDQUTIL001.html?rm=561
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作家・野村路子氏が保管してきた、ポーランドの画家ミェチスワフ・コシチェルニャック(1912〜93)がアウシュビッツを伝えるために描き遺した絵だ。
◆昨年、日本では最後の公開ということで展示された折に見ることができた。
*<M・コシチェルニャック絵画展>2015年3〜4月:早稲田大学大隈記念タワー125記念室
同時期にアウシュヴィッツの工房にいた画家仲間の、ヤン・コムスキーの絵の複製も展示されていて、ともに忘れ難い体験となった。
コシチェルニャックの作品もコムスキーの作品も、野村氏は同時期に本として世に紹介している。
ヤン・コムスキー『絶望の中の光』
ミェチスワフ・コシチェルニャック『地獄の中の愛』
(ともに野村路子 編・解説。ルック社、1996年)
*会場でその存在を知ったこの2冊、閉校したさる短大の除籍本としてネット古書店に出ていたものが幸い手に入った。
◆アウシュヴィッツの聖人として知られるマキシミリアノ・コルベ神父(1894.1.8〜1941.8.14)。
餓死刑を宣告されたある男性の身代わりとなることをコルベ神父が申し出たその場に、コシチェルニャック氏も居たのだった。
コルベ神父とコシチェルニャックはアウシュビッツで同じ棟に収容され、親しく話す間柄だった。
1941年7月の末のことだ。
収容所から脱走者が出たことを理由に、10人が無作為に(すなわち全く気まぐれに)選ばれ、餓死刑に処せられることになった。
番号で指名された中に、フランチシェク・ガヨヴィニチェク*という妻子ある男性がいた。
このとき、コルベ神父は「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出たのである。
収容所の責任者はこの申し出を許可し、コルベ神父と9人の人びとが地下の餓死室に押し込められた。
飢えと渇きが襲う中、しかし地下牢ではコルベ神父の祈る声が何日も何日も続く……。
*氏の名前の表記は「フランシスコ・ガイオニチェク」などいくつかあるが、同氏に直接会ったことのある小崎登明氏(長崎のコルベ記念館館長)の著『身代わりの愛』(聖母文庫、1994年)の表記に従う。
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◆コルベ神父はコシチェルニャックに「わたしは死に、灰だけが世に流されるが、あなたは生き残れる。アウシュヴィッツの犯罪と、何百万人もの苦しみを世に伝えるのが、あなたの使命となるでしょう」と予言したという。
〈だから、思い出すことが辛くとも、苦しくても、事実を描き続けなければならない……。〉
コシチェルニャックは生前夫人にそう話していたという(野村路子編『地獄の中の愛』)。
コシチェルニャックはアウシュヴィッツがポーランド国立博物館となったときの最初の館長を務めた。
精神的負担が大きすぎて、間もなく辞退せざるをえなかった(上掲書あとがき)のだが、しかし、コルベ神父の予言通り、彼は生き残り、貴重な記録を私たちに伝えることになった。
「事実を描く」とは口にするほど容易ではない。
身を何度も切りさいなむ苦痛を使命感がねじ伏せたという単純なことでもないだろう
(それは想像を絶することだと思うのだけれど、それで済ませられるものではないと感じる)。
生き残った者の使命を支える力はどこから来るのか、考え続けねばならない。
◆下の絵は、丸めた背や、ゴツゴツした両掌、そして何かをじっと見上げる眼によって、収容所の過酷な生活を伝えると同時に、生身のコルベ神父その人をじかに感じさせ、我々が可能な限り彼の近くに立つよう、そして共に記憶し共に考えるように語りかけている、と思う。
*コルベ神父を描いた何枚かの絵の最初に展示してあった。
刊本『地獄の中の愛』でも最初に載せてある。

写真や記念館の絵で接した彼の図像よりもはるかに人間くさい。
彫像などのように昇華し洗練させた聖人の像ではない。
だが、それだけにこの絵がある突き動かす力をもって見る者の中に棲みつくことは否定しがたい。

「コルベ神父と囚人たち」
*神父の番号は16670、胸の印は赤い逆三角形、ポーランド人の司祭を示すという。

弱り倒れて行く仲間たちを慰め励まし、祈り続ける神父

コルベ神父死す
*次々と絶命する中で、最後までコルベ神父は生き残っていた。
業を煮やした当局は死を早めるフェノール剤を注射したのだった。
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◆ヤン・コムスキー(1915〜2002) も、人間を人間として扱わない収容所を記録した。
その中で、次の絵は、胸に迫るものだった。

有刺鉄線の向こうに手を伸ばすのは射殺される危険を冒すこと。
コムスキーは野村路子にこう語ったという
――小さな花が咲いていたのです。収容所では草の芽が出れば誰かが摘んで食べてしまうから、花など見ることはなかった……。この人もその花を食べたかったのかも知れない。でも私は、小さな花に心をとめた人の姿として記憶しています。
鉄条網の向こうにはつかに咲いた花を摘む行為は、消え失せたはずの人間らしさをわずかに取り戻そうとすることだった、ということだろうか。
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長崎の聖母の騎士修道院に立つコルベ神父像。
1930に来日したコルベ神父は36年まで長崎で布教活動に全霊を捧げた。