
〈わたし・たち〉と名乗ること[2016年01月07日(Thu)]
〈わたし・たち〉
◆今日、1月7日の朝日新聞朝刊の「考2016:3」は社会と多様性をテーマに、翻訳家・池田香代子氏へのインタビュー。
記事:(考2016:3)社会と多様性 翻訳家・池田香代子さん 一色に染める空気、異論のノイズ必要⇒http://digital.asahi.com/articles/DA3S12147331.html?rm=150
「異なる意見を持った人同士の議論が成立しにくくなったと感じませんか。」という記者の問いに対して、次のように答えていたのにハッとした。
「『100人の村』では、Weを『わたし・たち』と表現しました。
そこで、読者につまずいてほしくて。
我々、という集団は私と私が集まったもの。
独立した個人が、安心して発言できるのが成熟社会。
私たちは、まだ学習途上なのかもしれません」

『世界がもし100人の村だったら』マガジンハウス、2001年
◆ハッとした、というのは、この本『世界がもし100人の村だったら』を手もとに置きながら、本文の締めくくりと帯の2箇所にある「わたし・たち」という表現に気づかずにいたからだ。
訳編者の意図をキャッチできない凡庸な読者であった、ということである。
もしもたくさんのわたし・たちが
この村を愛することを知ったなら
まだ間にあいます
人びとを引き裂いている非道な力から
この村を救えます
きっと
*シリーズを合本にした総集編の文庫(マガジンハウス、2008年)では、
上のことばは50pにある。
◆「この村=世界、を愛すること」は、「わたし」から始まるしかないという、単純だが覚悟が要る事実(その「覚悟」たるや、時には相当の腹のくくり方を要する)。
「わたしたち」の連帯や協働が最初から無条件に存在しているのでないことはいうまでもない。
むしろ相応の抵抗がつきものだろう。
だが、波風を恐れて行動を諦めるよりは、風を受ける自分の肉体を実感する経験の方が好ましい。
へこんだり、たじろいだりしても、厚いコンクリートによろわれて無傷のままでいるよりはいいだろう。
何より、「わたしたち」が成り立つためには「わたし」がまず、ここに居なければならない。
◆そういえば、一昨日の市民連合の大街宣、壇上のプラカードに「私は安保法制に反対します。」と書いてあった。

名乗ること
◆「私たち」ではない。誰かを当てにして「セーノ~」とかけ声をかけるのではない。
「私は」とまず宣言する。
気負いや虚栄とは無縁の、静かな名乗りである。
「名乗る」とは「名を告(の)る」*ことだったのを改めて思い出す。
「のる(告る、宣る)」ことは実現を期す覚悟の披瀝だが、それ以上に事が成ることを予め祝うことであった。
「のる」ことによって自分を超えたものの力が集まる磁場が生まれると信じることであった。
*「祝詞(のりと)」も同源。また、万葉集巻頭の歌「我こそは告らめ家をも名をも」も同様。