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ミウォシュ「ヨーロッパの子」その二[2022年05月01日(Sun)]


《ヨーロッパの子》その二(5〜8)
        チェスワフ・ミウォシュ
          小山哲 訳


 5

おまえの言葉が、それが意味するものによってではなく、
だれに対して用いられるかによって、意味をもつようにせよ。
あいまいな言葉を武器にせよ、
明晰な言葉は百科事典の闇のなかに沈めてしまえ。

どんな言葉にも判断を下すな、
だれがその言葉を口にしたかを役人がファイルのなかに確認するまでは。

激情から発する声のほうが、理性にもとづく声よりもましだ、
情熱なき者に歴史を変えることはできないのだから。

 6

いかなる国も愛するな、国はかんたんに滅びる。
いかなる都市も愛するな、都市はかんたんに瓦礫となる。

日記を残すな、さもないとおまえの机の引き出しから
毒気が噴きだして窒息することになるから。

ひとに思いやりなどかけるな、ひとはかんたんに死ぬ、
さもなければ、傷ついて、助けてくれとあちらから泣きついてくる。

過去の湖をのぞき込むな。錆の浮いた水面に写る顔は
おまえが予期していたものとは違っているであろうから。

 7

歴史について語る者はつねに安全である、
死者が立ちあがって反対の証言をすることはない。

おまえの望むように彼らがふるまったことにすればよい、
彼らの答えはいつだって沈黙だろうから。

夜の奥底から浮びあがる彼らの空虚な顔、
その顔に、おまえが必要とする目鼻だちを与えてやればよいのだ。

遠く過ぎ去った者たちに対する権力に誇りをもって
過去を変えてしまうがよい、おまえにとって都合のよい世界に。

 8

真理への敬意から生まれる笑いは、
人民の敵の笑いである。

諷刺の時代は終わった。もはやわれわれは
棘のあるへつらいによって無能な王を嘲笑することはないであろう。

建設にたずさわる者にふさわしく厳格なわれわれが
たがいに許しあうのは、せいぜい相手をもちあげながら冗談を交わすこと。

唇を固く引き締めて、われわれ、理性に忠実な者たちは
解き放たれた火の時代へと、慎重に足を踏み入れる。

              ニューヨーク、 一九四六年



  関口時正・沼野充義 『チェスワフ・ミウォシュ詩集』(成文社、2011年)より

◆第2次大戦中、独ソ秘密協定により翻弄させられたポーランドは大戦後、ソ連の衛星国の地位に置かれる。
この詩は、大戦中から戦後まで、詩人が渦中にあった政治状況を反映して、複雑な形を取っている。反語や逆説を用いて、常識に椅りかかることをうっちゃる構え。

◆例えば第5節の初連、普通なら回避したい「あいまいな言葉」を、武器にせよ、と敢えて言う。表現媒体が統制され、自由な言論や意見表明が保障されない状況のもとでは、公表されたものばかりか、私的な通信にさえ監視の網が張りめぐされ、市民同士の密告すら常態化する。第6節の「机の引き出し」の「日記」から毒気が噴きだす、とは、極私的なメモの類いまでもが命取りになるということだ。

何が当局の忌諱に触れるか、適否を判断するのは司法でもなければ市民の常識でもない。権力の判断一つであることは、白い紙を手に黙って立っていただけで逮捕される現下のロシアや、異論封じを断行した香港の例を見れば明らかだ。
(日本だって現在の「侮辱罪」をめぐる議論をみれば、同様の危うさがつきまとっている)。

同じ第5節の4連目「理性にもとづく声」よりも「激情が発する声」がまし、という言い方も同様だ。「理性にもとづく声」はその2つ前の連の「明晰な言葉」と同義だろう。
百科事典は客観的事実を記述するのが本領ではあろうけれど、独裁体制の下では、当局の意向に従ってあっさり削除・抹消される人物や事項が引きも切らない。
(これもまた、検定教科書に政府見解を記述せよ、と掣肘を加える目下の日本国と、本質において大差ない。)

◆第6節、「いかなる国も愛するな、国はかんたんに滅びる。/いかなる都市も愛するな、都市はかんたんに瓦礫となる。」は、体験をふまえたストレートな戒めだが、「愛するな」とはなかなか言えない言葉だ。
愛国心や郷土愛につけ込むのが権力の常であってみれば、国も都市もあっけなく滅びると言ってのけるだけでなく、「ひとに思いやりなどかけるな」とまで言い切って憎まれ役を演じておかねばならない。

◆最終第8節も逆説を駆使。
ハッキリしているのは諷刺やシニシズム(冷笑)で一矢報いる程度では立ち行かない時代=傍観者でいることが不可能な時代にわれわれがいる、ということだ。
それを「火の時代」だ、と表現したことの中には、「核の時代」という認識も当然含まれているのであろう。


大戦後77年を閲して、「無能な王」が存在しなくなり、へつらう相手が消滅したのなら結構だが、そうじゃなく、誰もかれもが無能な王に右ならえして、嘲笑する相手がもはや居なくなった、ということだとしたら……。






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