CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 長田弘「なくてはならないもの」 | Main | 長田弘「冬の夜の藍の空」 »
<< 2022年08月 >>
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
日別アーカイブ
長田弘「モーツァルトを聴きながら」[2022年02月22日(Tue)]

◆長田弘の詩集『世界はうつくしいと』には、だいぶ前に何枚も付箋が挟んであったのに、記事にしたのは昨日で3篇。
今回は4篇目となる。

音楽評論家・吉田秀和のことばが出てくる。
むろんモーツァルトについてだ。

*******


モーツァルトを聴きながら  長田弘


住むと習慣は、おなじ言葉をもっている。
住む(inhabit)とは、
日々を過ごすこと。日々を過ごすとは
習慣(habit)を生きること。
目ざめて、窓を開ける。南の空を眺める。
空の色に一日の天候のさきゆきを見る。
真新しい朝のインクの匂いがしなくなってから、
新聞に真実の匂いがなくなった。真実とは
世界のぬきさしならない切実さのことだ。
朝はクレイジー・サラダをじぶんでつくる。
ぱりっと音のする新鮮な野菜をちぎって、
オリーブ・オイルを振る。そして、
削りおろしたチーズを細かくふりかける。
時間にしばられることはのぞまないが、
オートマティックの腕時計が好きだ。
正直だからだ。身体を動かさなければ、
時は停まってしまう。ひとの一日を
たしかにするものは、ささやかなものだ。
それは、たとえば、晴れた日の
正午の光の、明るい澄んだ静けさであり、
こころ渇く午後の、一杯のおいしい水であり、
日暮れて、ゆっくりと濃くなってゆく闇である。
ゆたかさは、過剰とはちがう。パソコンを
インターネットに繋ぎ、モーツァルトを
二十四時間響かせているイタリアのラジオに繋ぐ。
「闘いながら拒絶すること、これが現代の
私たちが求めていることではなかったろうか?」
吉田秀和の、懐かしい言葉が胸に浮かぶ。
音楽は、無にはじまって、無に終わる。
いま、ここ、という時の充溢だけをのこして。



『世界はうつくしいと』(みすず書房、2009年)より


◆こうした詩に惹かれるのは自分が全くこのようではない日々を過ごしているからで、以前は詩集をひもときながら、羨ましい気分の方が勝っていたように思う。

最近も大差ない時間の過ごし方をしているに変わりはないけれど、せめて詩のことばが体内にしみ通ってゆく時間ぐらいは、ゆったりと「時の充溢」に近づきたいと願うようになった。

◆吉田秀和晩年の日々をとらえた映像のなかに、朝卵をゆで紅茶を淹れて朝食をとる姿があった。
日々繰り返される時間の流れ方に驚いた記憶がある。

◆さてどんなモーツァルトがふさわしいだろう?
何でも良さそうだが、「これだ。これしかない。」という一曲、それは確かにある――と思えることそれ自体、幸せなことだ。

そして同じように、不穏を伝えられる彼の地にも、モーツァルトに耳傾ける朝がありますように。



この記事のURL
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2234
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました
 
コメントする
コメント
検索
検索語句
最新コメント
マキシミリアナ・マリア・コルベ
コルベ神父のこと その2 (06/23)
タグクラウド
プロフィール

岡本清弘さんの画像
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index1_0.rdf
https://blog.canpan.info/poepoesongs/index2_0.xml