
貸本『墓場鬼太郎』と水木サンの机[2015年11月30日(Mon)]

水木しげる『娘に語る お父さんの戦記』河出書房新社、1985年
◆漫画家・水木しげるさんが亡くなった。享年93。
先月12日にはTVアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌を歌った熊倉一夫氏が旅立ったばかりだ。
ただの鼻たれ小僧だったこちらの想像力が、ようやく作者の生きた時代に届きそうになった頃に作者たちは遠くに行ってしまうのだから、こちらは常に取り残され続けることになる。
◆水木しげるは、自らの体験を漫画として発表し続けた。
インタビューでも語り続けてきたから、その楽天的で独特なキャラクターとともに、彼の戦争体験も何となく知っているつもりになる。
だが、本当にそうなんだろうか?
一体彼が体験したことと、そこから生まれた作品について何を我々は知っているというのだろう。
たとえば、30年も前に発表された上の本、あとがきにこんなことばがある。
ぼくが新聞配達をしていた時、どうしても新聞をとらない家があった。
その新聞社はニッポン号という双発の飛行機で世界一周して国威を海外に知らせるということだったから、ぼくはてっきり、国のためにやっているのだと思ったから、○○新聞ぎらいな家の前で、大声で、
「○○新聞をとらない者は国賊だ」とやった。
国賊という言葉に、一家中がうろたえて出てきたことがあったが、かなりのきき目があった。
当時は何でもお国のためだった。
自分の生活なんかまったくなかった。
第一そんなことを考えること自体、国賊だったのだ。
◆戦後40年夏の戒めのことばだが、それから30年、今、ほとんどこの戦時中の状況になっていないだろうか?
戦後、非戦の社是をもって戦争翼賛を反省したはずの「○○新聞」が、「○○新聞をとっている者は国賊だ」式のキャンペーンを張るライバル紙や極右紙に足もとをすくわれそうになって今や危うげだ。
責め立てる側の御用新聞たちとしては、従軍慰安婦報道をめぐって「国賊!謝れ」と「○○新聞」をたたくことで実は「自分たち▲▲新聞や××新聞をよまない者は国賊だ」と国民を脅し、購読者増を狙うキャンペーンだったわけだ。
それが成功したとはいえない(そもそも生活厳しく、新聞取るのもままならない)。
しかしネットやヘイトスピーチを動員することで、政府批判を公言する者はいうに及ばず、疑問をつぶやいただけですぐ「国賊」と決めつける。「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」で、自粛や自己規制がたちまち進む。
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貸本で読んだ『鬼太郎』
◆「鬼太郎」といえば、忘れられないのは貸本で読んだ『墓場鬼太郎』だ。
のちのTVアニメも楽しんだが、「鬼太郎」といえば貸本で読んだ晩の記憶が鮮明だ。
1冊10円だったか20円だったか。
祖母の姉夫婦の家近くの神社で夜宮(宵宮)があったのに呼ばれて母や兄と泊めてもらった晩に貸本で読んだのだ。
その家は神社の参道の右手を上ったところにあった。
山に向かって段々状になった地形に合わせて建つ細長い家だった。
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夜宮の思い出――「カツドウ」という言葉
◆夜になって小父さん(祖母の姉のご主人)が祭りに連れて行ってくれた。
銀玉鉄砲を買ってもらったように思う。
裸電球に照らされ露天が居並ぶ人混みを歩いていたら母や小母さん(祖母の姉)と合流した。
その時歩きながらの話で小母さんが映画を「カツドウ」と呼ぶのが珍しかった。
今、思えば、東京にいる息子の仕事の話を母と話していたのだろう。
そのころ、彼が出演した映画(主演だったはずだ)を、弘前の映画館まで一族郎党うちそろって観に行くという一大イベントがあった。
◆――野原に真っ直ぐ伸びた一本道で自転車の若い娘とひょろ長い青年(それが祖母の姉の息子だ)が出会う。
――記憶にあるのはモノクロのその1シーンだけで映画の題名も何も全く覚えていない。
恐らく夜宮の参道を歩きながら小母さんは、映画俳優として活躍し始めた息子のことを母に話していたのだと思う。
(その後この小父さんは舞台に転じて浅草で活躍、後年再び映画に出ることになる。)
◆その近くの家のテレビで、栃錦と若乃花(初代)の結びの相撲を大勢で窓の外から観た記憶もある。
栃若の全盛期は、3月大阪場所、全勝同士で千秋楽を迎えた1960(昭和35)年だから、夜宮に招かれて泊めてもらったのは、同じ年の夏場所の千秋楽の日だったのかもかもしれない。当方は小学校1年。
◆この1960年には全国で映画館の数が史上最高の7457館を数え、映画の全盛期だった。
邦画では市川崑の『おとうと』や小津の『秋日和』(先日亡くなった原節子や佐田啓二が出演)。洋画ではチャップリンの『独裁者』やアラン・ドロン『太陽がいっぱい』、ヒッチコックの『サイコ』など名作が次々と封切られていたはずだが、むろん、小1の自分にそんな世界があるとは全く想像もつかない。
ただ、子どもにとっては、「映画」はあくまで「映画」と呼ぶべきものであり、「カツドウ」と呼ぶ小母さんはさすがに明治の人だった。
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貸本「鬼太郎」と机の記憶
◆さて、そのあと、小父さんは貸本屋に連れて行ってくれ、こちらが選んだ数冊を借りてくれたのだった。
家に帰ってそれを一心に読んだのはいうまでもない。
そんなわけで、水木しげるの「鬼太郎」と言えば、いつも、貸本屋・夜宮・カツドウがセットで思い出されるのだが、実はもう一つ思い出す品物がある。
小父さんの家にあったライティングデスクだ。
勤め人である小父さんの垢抜けした暮らしを感じさせるものだった。
◆農家の小学生に専用の学習机などありえない時代、学校の宿題は食事を囲む飯台や折り畳みの小さな座卓であった。
机と名が付くものは、父親が農業日記を書く座り机と、兄が使っていた座り机(恐らく父も若かりし日に使っていたもの)だけだった。
(最初にわが専用机となったのはリンゴの木箱である。白い紙を貼り彩色するのを兄が手伝ってくれた。余勢をかって本立てにも紙を貼って水彩で色を付けた。それはそれで愉快な作業であったのだが。)
◆ともかくも、ライティングデスクは形として珍しく、天板が出てくる仕掛けも魅力的だった。椅子も座面が丸くクッションが青いビロードで覆われた回転椅子だったと思う。
回転椅子といえば、学校でピアノを弾く先生が座るアレか、病院の、肘掛けが付いていてお医者様が患者を診るときに回転するアレしかない。
その回転椅子がライティングデスクとともに家の中にあるのだ。知的な雰囲気で子どもの憧れを誘うには十分であった。
大学に進んで小平市の学生寮に入ったときに、同室の何人かが真新しいライティングデスクを運び込んだのにはやはり羨望の念を覚えたものだ。
自分の机はと言うと、国分寺の家具屋で買った、脚が折りたためる食事用の和式テーブルだ。980円ナリ。単行本1冊の値段のこのテーブルを、寮まで自分で運んだ。
実家には高校まで使った片袖机と椅子があったが、運送料のことを考えて持って来るのはやめにしたのだった。
◆それ以降、現在に至るまで、机として使って来たものはいずれも集成材などで作った自家製だ。
今や本などの置き場になっている。
パソコンを今叩いているこの机もまた、天板は引越祝いに兄から贈られた和式の食卓だ。
ダイニングテーブルの脚に付け替えて高くした。
結局、市販の「机」を買うことはないまま40年以上を過ぎたことになる。
先日の山崎豊子展に作家愛用の机が展示してあったが、見る者を惹きつける感じがなかった。
神奈川近代文学館に展示してある漱石の机もそうだ。
この机に向かって胃痛に悩みながら書き綴ったのか、と一定の感慨は覚えるものの、それ以上ではない。
おそらく展示物=見るだけのものとしてガラスの向こう側に置かれていることが、その机の持ち主の姿を想像することを妨げているのだろう。
長崎の聖コルベ神父の机
◆その意味で、最も感銘を受けたのは、長崎の聖母の騎士修道院にある聖コルベ神父(1894〜1941)の机だ。
ムク材だが、荒削りのいかにも手作りのもの(コルベ神父と一緒にポーランドからやってきたゼノ神父が作ったものだという)。そして板を無骨に組み合わせた、椅子というよりは床机の形をしたクッションなしの椅子。
板壁に囲まれた部屋でその机に手を触れることができたためか、そこにやや背を丸めて坐り、時々咳をして仕事をしているコルベ神父の姿をありありと想像することができた。
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水木しげる『敗走記』のラスト。
執筆机に向かいながらラバウルで敗亡した体験を思い起こしている。
画に添えたメッセージは…
「戦争は人間を悪魔にする
戦争をこの地上からなくさないかぎり
地上は天国になりえない……」
『敗走記』(『漫画が語る戦争 戦場の挽歌』所収。小学館,2013年)