〈耳をかたむけよ〉[2021年09月10日(Fri)]
◆新型コロナの感染者数は前週比で半減の日が続くようになったが、低減しないうちに次の高潮が来るのではないかと危ぶむ。藤沢市内の感染者数はこのところ30名ほど。
◆胸ふたぐ思いがするのは若い世代の死亡が続いていることだ。
神奈川県内では今日10日、逗子市の40代男性が亡くなった。基礎疾患はなかったという。
都内も連日10数名を数え、一昨日(8日)報じられたところでは、30代男性が職場で倒れているのを出勤した同僚が発見した例や、40代男性がビルの出入口に倒れていて、救急車で運ばれたものの、搬送先で死亡、その後の検査で感染が判明したという。
助けを求める声を受けとめる人は間近にいなかったのだろうか。
先ほども寝静まりつつある街を救急車の音が聞こえていた。映画やドラマの中に放り込まれたような、歪んだ日常。
ミューという変異株ばかりか、イータ株やカッパ株というタイプも国内で発見されていたという。今回も厚労省は遅まきの発表。人心の動揺を防ぎたかったのかも知れないが、冷静な分析と迅速な報知を心がければ不安は回避できるものを、厚労行政への信頼は遠のくばかりだ。
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審判 石原吉郎
この世のものおとへ
耳をかたむけよ
くるぶしの軋るおと
頸椎のかたむくおと
石が這いずるおと
肩を手がはなれるおと
証人がたち去るおと
およそ覚悟のように
ものおとがとだえるおと
かつてしずかなものを
この日かたむけて
挨拶はただ南へかげる
現代詩文庫『石原吉郎詩集』(思潮社、1969年)より
◆耳を澄ますのでないと聴き取れない「おと」たち。
中には殆ど音など立てないものの動きや動きが終止する気配。
注意深く「しずかなもの」に思念を向けないならば、それらはこの世界に存在しなかったも同じになってしまう。
ある日それらが完全に動きを止めて、自分の心臓の音が聞こえるだけだとしたら、その孤独に耐えられるだろうか?
そのとき感謝や別れのことばを口にしたところで、地に伸びた我が影の外に届くことはないのだ。
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*【21/09/15追記】
この「審判」という詩、昨2020年に取りあげていたことに気づいた。いずれも夏から秋に向かう頃。一人の詩人の同じ作品が繰り返し目に留まるのは季節とつながっているのだろうか。
また、音楽も繰り返して聴くことが多いけれど、詩との共通点はあるだろうか。
参考までに旧記事とその関連記事のリンクを付しておく。
同じ感想に終わっていたら、進歩がないことを証明するばかりだが、さて。
★石原吉郎「審判」と「位置」[2020年8月10日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1673
★石原吉郎の「位置」[2018年10月8日]
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1010