池田瑛子「音色」[2021年08月23日(Mon)]
昼過ぎの山道を降りる途中、みごとな黒アゲハに会った。
そこからさらに四つほど折れて下ったところにもふたつみつ。
ふと、それ以上現れたらどうしようと心細くなったが、幸い林はもう終わりで、熱い空気が戻ってきた。
*******
音色 池田瑛子
詩人は
講演の終わりに
郷里の母をうたった詩を朗読し
何年ぶりかで家を訪ねたことにふれ
「そこに、あったのですよ」と
おもむろに
包まれていたものを白い布のなかから
慈しむように出して
マイクにむかって揺らした
黒い鉄製の風鈴だった
会場に流れた
澄んだ深い音色は
瀬戸内海に面した故郷
詩人の家の軒先で鳴っていた音
家族を見守ってきた音色
わたしの胸のなかに
月夜の生家の縁側が見え
遠い日の父とわたしが黙って
螢の舞う庭を見ている
風が思い出したように
風鈴を鳴らしてゆく
それぞれの寂しさを
響かせて
『星表の地図』(思潮社、2020年)より
◆ある音が、記憶をよみがえらせることもある。
ここでは風鈴の音色が、幼いころの情景を繰り広げてくれた。
家族、月明かりの庭の植え込みにやってきた螢、風の気配……。
おわり近く、「それぞれの寂しさ」とある。
反芻される思い出の情景に風鈴は鳴り、余韻に重ねるようにまた鳴る。
そのたびに「父」「わたし」の生きて来たあれこれが浮かび上がっては再び遠ざかる。
繰り返される風鈴の音色も、かすかな唸りや不協和をも響かせて。