
辞書の感触[2021年01月19日(Tue)]
◆片付けを進めている従兄の遺品の中に、表紙が取れ、バラけてしまった英和辞典があった。
ページを繰られた歳月と、役目を終えて本棚の一隅で眠っていた歳月とどちらが長いかもはや分からないが、持ち主がいて手指がその重さを支え、ページをめくり、視線を注いだ一連のことどもをありありと伝えるこれ以上のものはない。
◆今パソコンに向かっているテーブルの片隅に二つある電子辞書のうちの一台は、反応しなくなったキーがいくつかあって、使わなくなった。十年あまり使ってきたものだが、紙の辞書のように持ち主の生きた時間を想像させることが果たしてあるだろうか。
この先、どう遇すべきか悩ませる点では同じに思えるのだが。
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肌触り 本庄英雄
机の片隅に岩波国語辞典がある
電子辞書やパソコンに占有され影が薄い
西尾実・岩淵悦太郎編の背表紙もはずれ
厚紙で補修したのはいつだったか
二十代の頃
会社を立ち上げた仲間の事務所に勤め
一年足らずで倒産した記念の品なのだ
給料は止められ
怒号と罵声の渦の中
あす 差し押さえが入るので
事務所の金目(かねめ)になるものを持っていってほしいと言う
社長は逃亡し
専務だった明るいS君の暗いその眼差しを忘れる事はできない
すでに がらんどうになった事務所の
目の前の事務机に
国語辞典が にぶい光を放っていた
誘われるように手にすると
温(ぬく)い肌触りが伝わってきた
なんとかなるさ と
其のとき思った
一冊の国語辞典が
三ヶ月分の給料として充当されたのだ
三十八年前の出来事なのに
今でも この手に
芽吹くような痛みとともに
蘇ってくる
本庄英雄詩集『空を泳ぐ』(中西出版、2019年)より