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「とりあえず」生きている、のか?[2020年10月06日(Tue)]

DSCN4440.JPG
サギほど不思議な姿勢を呈するものも少ないかも知れない。
田んぼの稲刈りは半分方済んだ様子。

*******


律義者たち   平田俊子


明るくなれば
とりあえず騒ぎ出す
鳥たちなんて律義なものだ
おもちゃで誘えば
とりあえずついてくる
小学生なんて律義なものだ
背広を着れば
とりあえず出ていく
サラリーマンなんて律義なものだ
車が近づけば
とりあえず赤になる
信号なんて律義なものだ
油断があれば
とりあえず押し入る
泥棒なんて律義なものだ
寿命が尽きれば
とりあえず死んでみる
のら猫なんて律義なものだ

(そういう世界のページを閉じて
ふて寝を決め込むおれさまである
時報を聞いても腹をすかさず
眠りが足りてもまぶたをあけぬ
横になると物音ははっきり聞こえる
遠くをゆく人の足音までが
雨だれのようにおれの耳をたたく)

そこに山があれば
とりあえず登る
登山家なんて律義なものだ
鳥たちが騒げば
とりあえず顔を出す
太陽なんて律義なものだ
きょうが終われば
また復帰する
とりあえず
おれもけっこう律義なものだ


*現代詩文庫『平田俊子詩集』(思潮社、1999年)より

◆「律義者」を並べた中に、そうでない「おれ」を放り込んでみた、という趣。
条件反射のように義理がたく定型化された反応をする者たちのいる世界、本を閉じるようにその世界に背を向けてふて寝する「おれ」は「律義者」の反対のやつ、ということになるだろう。
「律義」の意味は義理がたく真面目、ということだろうから、その反対語は「ふまじめ」「不義理」あたりか。ちゃらんぽらんでいいかげんな奴、が「おれさま」だと開き直って見せている。

鳥もサラリーマンも信号も、さらには泥棒ですら、いつの日だって判で押したようなふるまいを飽かず繰り返す「律義者」だ。
寿命が尽きた「のら猫」また然り――「100万回生きたねこ」、というのがいたじゃないか。
その猫みたいにゴロリと横になる――徹底して怠け者で、面倒くさがりで、天の邪鬼で、オブローモフ(ゴンチャーロフの小説の主人公)みたいに。

◆この詩にも仕掛けは施してあって、「とりあえず」という一語が、「律義者たち」の関節を外してゆく。ルーティンな日々からそれぞれ解放してやるというふうに。

解放された世界は別の相貌を見せるだろう。たとえば「おもちゃ」に誘われてついてくるのが「大人」だったり、という風に。
実のところ、「律義者」だと見えるのは「とりあえず」の姿に過ぎないのだから、分かった風にレッテルを貼ってナメるなよ(「レッテルをナメて貼る」が適切か)、というわけである。

◆さて、のら猫のように取りあえず死んでみた「おれ」は、「きょうが終われば/また復帰する」のだという。あの世からこの世に「復帰」ということだろう。
してみると、「おれ」は日々死んだり生きたりしているわけで、その繰り返し自体が「けっこう律義な」話だ。さて、何のために?と疑問に思うのなら、この世界という書物をまた「とりあえず」開かねばならないのだが。



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